もちろんそれまでも、誰もが漠然と“影響力”の存在に気づいてはいたが、詐欺と紙一重の世界で、それを論ずることは「いかがわしい」とされていた。だからこそ影響力をはじめて「科学」したチャルディーニの『影響力の武器』は世界的なベストセラーになり、その後はマーケティングなどに広く利用されるようになった。
じつは1984年に『影響力の武器』を著してから、その大きな反響にもかかわらず、チャルディーニは単著を書いていない。その理由を本人は「じつは、単著にするほどの大きなアイデアを持ち合わせていなかった、というのが本当のところです」と説明する。その間に何冊かの共著を出しているが、それは「『影響力の武器』という一本の大きな木の周りに低木を植えていく作業」だったのだ。
そのチャルディーニが33年ぶりに満を持して世の問うたのが『PRE-SUASION(プリスエージョン)影響力と説得のための革命的瞬間』だ。この新著では、説得(PERSUASION)の前段階(PRE)、すなわち「下準備」に影響力の秘密を探っていく。
8つの説得の原則PRE-SUASIONを説明する前に、PERSUASION (説得)の原則をざっとまとめておこう。優秀なセールスマンは(カルトの指導者も)これらを効果的に組み合わせることで、とんでもない営業成績を達成したり、信者の洗脳に成功したりする。――チャルディーニは「影響力の武器」を(1)から(6)までとしており、(7)と(8)は付随的なものだ。
(1)返報性(互酬性)「なにかしてもらったらお返しをしなくてはいけない」という人間社会に普遍的な規則・習慣。カルト宗教団体の募金活動では、通行人の手にいきなり花を押しつけたり、ピンで上着にとめたりする。
(2)好意 自宅でホームパーティを開き、タッパーウェアなどを販売する商法が一時期大成功を収めたのは、友人の「好意」を断ることができないからだ。ひとは自分に似た相手に好意を抱くので、スーパー営業マンは絶世の美女や白面の美男子ではなく、誠実そうで平凡な容姿をしている。
(3)社会的証明 「みんながやっていることに無条件で従う」のは、集団をつくる動物が進化の過程で、盲目的に群れと同じ行動をとることを生き延びるための最適戦略にしたからだ。ベストセラーやヒット曲が生まれるのも同じで、みんなが読んでいる本や、みんなが聴いている曲は、それだけでさらに多くのひとを引きつける。このようにして『ハリー・ポッター』のような超ベストセラーが誕生する。
(4)権威 医薬品のコマーシャルには白衣を着たタレントがしばしば登場する。とりわけそのタレントがテレビドラマで医師の役を演じていたりすると、CMは素晴らしい効果を発揮する。視聴者は、彼が専門家の振りをしていることをよく知っているにもかかわらず、その商品を権威ある医師が勧めたものと錯覚する。
(5)稀少性 仕入れたダイヤモンドが売れなくて困っていた貴金属商が破れかぶれで価格を大きく引き上げたところ、たちまち完売してしまった。私たちは、稀少なものには価値がある(価格が高いのは稀少だからだ)と無条件に思い込むようにできている。
(6)コミットメントと一貫性 社会のなかで生きていくためには、約束を守ったり、言動に筋が通っているのはとても重要だ。
(7)コントラスト効果 新車を買うと、カーステレオやカーナビ、アルミホイールやスポーツタイヤを勧められる。どれも高額商品だが、車本体の価格と比べると割安に感じられるので、ついつい財布のひもがゆるんでしまう。
中古車ディラーでは、最初に魅力のない車を何台か見せておいて、その後に割高だがそこそこの車を案内する、という方法もよく使われる。宝石店やブランドショップでは逆に、とうてい手の届かない高額商品を最初に見せて、クレジットカードの分割払いならなんとか買えそうな商品を勧める。
(8)勝者の呪い 景気が過熱すると、絵画や骨董品、不動産からワールドカップの放映権までさまざまなモノが経済合理性を超えた価格で取引されるようになる。ひとの欲望が最高潮に達するのは他人と競争しているときで、バーゲン品に群がる主婦からMBAを持つ百戦錬磨のビジネスマンまで、「誰かがそれを欲している」というだけで、セリに出された商品(粗悪な洋服や赤字だらけの会社)にものすごい価値があると錯覚してしまう。
説得の達人がしていることは入念な下準備だったチャルディーニは、調査のため営業などの現場に潜入したとき、ひとつのことに気づいたという。あらゆる業界でエースと目されるひとたちが多くの時間をかけていたのは、わかりやすさや論理性といった「説得」の技術ではなく、その前に何をして、何をいうかの入念なつくりこみだった。説得の達人を達人たらしめるのは下準備、すなわち受け手がメッセージに出会う前から、それを受け入れる気になるようにする戦略なのだ。
その具体例として、チャルディーニは知人のコンサルタントの例をあげる。
だがあるとき、彼は妙案を思いつき、それ以降二度とこの問題に煩わされることがなくなった。その方法はものすごくシンプルで、顧客が見積もり(7500ドル)を見る直前に「おわかりでしょうが、このサービスで100万ドルをいただくわけにはまいりません」というジョークを挟んだだけだ。すると不思議なことに、どのクライアントも「では、この金額に同意しておきますかね」というのだ。
これは行動経済学でいうアンカリングの応用で、たとえジョークであっても、最初に100万ドルという大きな金額を聞かされると、それがアンカー(碇)になって、7500ドルという見積もりの金額がものすごくお得に感じる。こうしてクライアントは、ディスカウント交渉をする気をなくしてしまうのだ。
もうひとつの例はジムという男で、非常に高価な家庭用熱感知型火災報知器のトップセースルマンだ。
ジムは、見込み客の自宅への訪問で、信頼を勝ち取る独特のテクニックを使っていた。それは火災報知器の実演やセールストークとはなんの関係もなく、見込み客がテストを始めるのを待ってから、「あちゃー、大事な資料を車に置いてきてしまいました。でも、テストの邪魔をしたくないので、自分で行ってきていいでしょうか?」と訊ねるのだ。ほとんどの見込み客の夫婦は「もちろんどうぞ」といって、オートロックのドアの鍵を渡す。
この場面が繰り返されることに疑問をもったチャルディーニが理由を訊いても、ジムはなかなか教えてくれなかったが、あるとき口をすべらせた。ジムはいった。
「考えてみろよ。誰なら家の玄関を勝手に出入りさせる? 信頼してるやつだけだろ? オレは客と信頼のイメージで結びつきたいんだ」
大切な家の鍵を渡すことで、見込み顧客は無意識のうちにジムを信頼する。そのため、資料を抱えて戻ってきたジムが勧める高価な商品を喜んで購入してしまうのだ。
説得には「特権的瞬間」を生み出すことが重要『プリスエージョン』に新しく登場した概念が「特権的瞬間(モーメント)」だ。「相手の依頼を受け入れるほかに選択肢がなくなる特別な瞬間」のことで、「心理的滑り台」とも呼ばれる。顧客はいったんこの滑り台に乗せられてしまうと、滑り降りる以外になにもできなくなってしまう。
ここで重要なのは、「何かの存在に気づくのは、その不在に気づくより簡単だ」という原理だ(これを専門用語で「肯定的検証方略」という)。
カルト団体は勧誘の際、「いま満足していますか?」とは訊かない。「はい」とか「それなりに」といわれてしまえば、そこで会話が終わってしまうからだ。その代わりに、「どんな不満がありますか?」と訊く。
心理学の調査で、自分の不満を探り出すような質問に刺激されたあとでは、人は自分が不満を抱えていると考えやすくなることがわかっている。そこですかさず「不満があるのなら、それを変えたいと思っていますよね」と畳み込み、相手を「心理的滑り台」に乗せるのだ。
この手法はさまざまな応用が可能だ。人は無意識のうちに「一貫性」に束縛されているので、「あなたは人助けができるタイプですか?」と訊くと調査に協力してもらえる可能性が高まり、「あなたは冒険心のあるタイプですか?」と訊ねると馴染みのない商品を試させることができる。
「存在に気づかせる」というのは、わかりやすくいえば相手の「注意」を引くことだ。
脳は同時に2つのことを体験するのが苦手で、一度に1曲しか流れないCDプレイヤーと同じだ。――CDプレイヤーが2曲同時に再生しないのは技術的な問題ではなく、人間の認知に合わせているからだ。
相手が注意を払うものはたくさんあるから、あなた以外のものに注意を向けていれば、聞いているふりをするだけで説得になんの効果もない。逆になんらかの方法で相手の注意を引きつけることができれば、あなたの言葉以外は聞こえなくなるのだから、説得はものすごく効果的になるはずだ。成功か失敗かは、セールスを始める前の、「注意」という稀少な資源の獲得競争で決まっているのだ。
著名な心理療法家ミルトン・エリクソンはこのことをよく知っていたので、セラピーのとき、窓の前の丘を大型トラックが登りはじめるのを待った。
その理由を聞かれてエリクソンは、「こちらが重要だと思わせたい話をするときは、患者が話を聞こうと身を乗り出す姿勢を取るように段取りしているので、効果が出るのです」とこたえている。
患者は身を乗り出すことで、無意識のうちにこれからの話が重要だと判断し、注意を集中する。これが「特権的瞬間」を生むのだ。
「重要だから注意を向けるのではなく、注意を向けたものが重要になる」行動経済学の父ダニエル・カーネマンは、「人生のどんな要素にも、あなたがそれについて考えている間に感じるほどの重要性はない」と述べた。これは「焦点錯覚(フォーカス・イリュージョン)」と呼ばれている。
これをもっとかんたんにいうと、「重要だから注意を向けるのではなく、注意を向けたものが重要になる」ということだ(「議題設定仮説」という)。すなわち、なんらかの方法で注意が向くように誘導できれば、自動的に、相手はそれを重要なものだと考える。
とはいえ、この方法が万能というわけではない。あるアイデアに注意を向かせる手法がうまくいくのは、そのアイデアにメリットがあるときだけだ。できの悪いアイデアに注意を向けさせたところで、説得力が増すどころか逆効果になる。賛成でも反対でも、ひとは何かを検討すればしただけ、それに対する意見は極端(偏向したもの)になるのだ。
相手の注意を誘導する戦略として、チャルディーニは以下の2つを挙げている。
ひとつが、他の選択肢を意識させないこと。
キヤノン、ニコン、オリンパス、ペンタックスといった複数のカメラについて訊ねれば、相手の注意は分散されてしまう。キヤノンの品質についてだけ検討を求めるなら、相手は理由に気づかないまま、キヤノンのカメラを購入する意欲を高める。
もうひとつは、決定のコストを下げさせること。
複雑な選択は大きな知的リソースを必要とし、脳に苦痛を感じさせる。そこで脳は、この苦痛から逃れるために「こんなもん化(サティスファイシング)」を使う。これはノーベル経済学賞を受賞したハーバード・サイモンの造語で「満足させる(サティファイ)」と「足りる(サフィス)」を組み合わせたものだ。
サイモンは、私たちが意思決定をするとき、「よい決定をすること」と「さっさと決定してしまうこと」の2つの目標を同時に達成しようとしていると考えた。最善の決定をするためには膨大な時間と労力がかかるため、「こんなもんでいいか」というところで妥協するのだ。
この2つの原理はとてつもなく強力なので、やってもいない犯罪を自白させることもできる。まず、狭い部屋で取調官と1対1にすることで、それ以外に注意を向けることをできなくする。――あらゆる洗脳において監禁が使われるのはこれが理由だ。そのうえで犯罪に至るストーリーを繰り返し提示し、執拗に自白を求めると、脳はその苦しみから逃れるために、「こんなもん化」によって罪を認めるという選択を選んでしまうのだ。
こうした洗脳を防ぐためにこそ検察の取り調べ可視化が必要なのだが、社会心理学の実験では、陪審員でも、法執行機関の人間でも、刑事裁判所の判事でも、正面からカメラに映されている人物により大きな責任があると判断することがわかっている。これは無意識のうちに、映像の主役=主人公が、よいことであれ悪いことであれ、もっとも重要なことを行なったと判断するからだ。
この錯覚を是正しようとすれば、取調の可視化は、取調官と容疑者を横から映さなければならない。それができない場合でも、カメラの位置を確かめ、正面から撮られないよう椅子の位置を動かせばそれだけ重要度は下がり、陪審員たちも客観的な評価が可能になるという。
高齢者が若い時よりも今のほうが幸福だと感じている理由それ以外にも『PRE-SUASION』には、注意を操り「特権的瞬間」を生み出すためのさまざまな戦略が紹介されている。
詳しくは本を読んでほしいのだが、チャルディーニは以下の6つの要素に対して、ひとは無意識のうちに強く注意をひきつけられるという。それは(1)性的なもの、(2)身の危険を感じさせるもの、(3)身のまわり(環境)の変化、(4)自分と関係しているもの、(5)未完了のもの、(6)ミステリアスなものだ。すぐれた娯楽作品は、これらの要素を上手に組み合わせることで読者や観客の注意を独占する。
もうひとつ興味深かったのは、年齢と幸福度の関係を「注意」で説明するところだ。
さまざまな幸福度の調査で、高齢者は、若く、強く、健康だった昔よりも幸福だと感じていることがわかっている。これは一見、不思議に思えるが、チャルディーニは「高齢者たちは単に、生活のあらゆる否定的な側面を扱っている時間など、自分にはないと確信している」からだという。
稀少なものに高い価値があるとすれば、老いや死を意識することは、残された(短い)人生の時間価値を高騰させるはずだ。そんな高価なものを、不満や恨みつらみなど、ネガティブなことに費やすほど無駄なことはない。
「高齢者は若い人たちよりも肯定的な記憶を思い出し、気分の良くなる考えを受け入れ、自分に都合の良い情報を探して心にとどめ、幸福な顔を探したり、じっと見つめたりします。そして、持っている消費財の良い面に注目するのです」とチャルディーニはいう。
もちろん、すべてのひとがこんなにポジティブになれるわけではないだろう。だが幸福は(かなりの程度)主観的なものなのだから、「明るい境地へ向かう場所に自らの注意を集中させる」ことがもっとも効果的なのだ。
チャルディーニはこの本を、次の言葉で締めくくっている。
「あらゆる選択のほとんどで、私たちがどんな人間であるかは、その選択を行う直前に、注意という観点から見て私たちがどこにいるかで決まります」
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本(新潮文庫)など。最新刊は、『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書) 。
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