プーチン大統領の鶴の一声で、ロシア・ワールドカップで発行されたFAN IDの効力が年内いっぱいまで延長されたため、それを利用して9月にサハリン(樺太)のユジノサハリンスク(豊原)に行ってきた。忘れないうちに、旅の記録を残しておきたい。

 外務省の見解によると、日本は敗戦によって(北緯50度以南の)南樺太と千島列島のすべての権益を放棄したものの、最終的な帰属は国際的解決手段に委ねられている。戦後はロシアが実効支配しているが、平和条約が締結されていない以上、その帰属は未定というのが日本の立場だ。ただし北方領土と異なり、日本政府は領有権を主張しておらず、ロシアの実効支配に異議を唱える立場にないため、事実上、ロシア領であることを容認しているということのようだ。

 そのためここでは、ロシア表記を基準に、適宜、旧日本名を使うことにする。

サハリンはソ連時代はラーゲリ(収容所)として使われるだけの人跡未踏の地だった

 戦前の左翼活動家の手記を読んでいて、「憲兵に追われてソ連の亡命を決意し、国境を徒歩で超えた」という記述に出会って不思議に思ったことがある。じつは彼は船で稚内から南樺太の大泊に渡り、そこから樺太鉄道で日ソ国境の近くまで行って、国境警備の目を盗んで越境したのだ。

 1938年には女優の岡田嘉子が、共産主義者の演出家・杉本良吉とともに同じルートでソ連に亡命している。戦前まではここが日本本土で唯一の陸路の国境で、ソ連への亡命手段として利用されていた。――ただし亡命者は、スターリン治下のソ連でスパイと疑われ、ただちに収容所に送られた。

 サハリン島の面積は7万6400平方キロで、北海道(8万3450平方キロ)とほぼ同じだ。ただし主要都市は南部に集中しており、北部は20年ほど前から油田開発が始まったものの、ソ連時代はラーゲリ(収容所)として使われるだけの人跡未踏の地だった。

 サハリンは交通の便もあまりよくないため、旅行は州都ユジノサハリンスク(豊原)やフェリーターミナルのあるコルサコフ(大泊)を起点に、周辺の町を車で回ることになる。

日本からは成田と札幌からユジノサハリンスクへの直行便があり、夏季は稚内‐コルサコフ間をフェリーが就航している。通常、ロシアを旅行するには観光ビザの取得に面倒な手続きが必要だが、サハリンについては簡易ビザやビザ免除の特例があるようだ。

 行きの成田空港では、ヤクーツク航空のチェックイン・カウンターで高齢者の団体といっしょになった。ほとんどが80歳を過ぎているようで、樺太で生まれたひとたちが故郷を訪れるのかもしれない。

 そんなサハリンには、いまも日本統治時代の建物が残されている。そのなかでもっとも保存状態のいいのがサハリン州立郷土博物館で、かつては樺太庁博物館だった。サハリンの自然、民族、歴史が展示されている。

 日本列島へは4万年前にシベリアから樺太経由でヒトが渡ってきた。彼らが土器を使うようになって約1万5000年前に縄文時代が始まるが、サハリン島でも多くの土器が発掘されている。それ以外でも日本統治時代の生活用品や日露戦争、第二次世界大戦で使われた日本軍の兵器などが展示されていた。

かろうじて残っている日本統治時代の建物

 サハリン州立郷土博物館と並んで保存状態のいいのが、ユジノサハリンスク駅前にあるサハリン州立美術館。かつての北海道拓殖銀行豊原支店をリノベーションしている。

 ソ連は日本統治時代の建物を活用しようとしたため、軍や行政機関にそのまま転用されたものも多いが、戦後70年を過ぎてさすがに老朽化が激しくなり、古い地図には記載されているものの、行ってみたら更地になっていることもあった。

 そのなかでも、かろうじて残っている建物もある。

 樺太鉄道が発着した旧豊原駅や街のシンボルである樺太神社など、かつての面影をかんぜんに失っているところもある。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のモチーフともいわれる樺太鉄道

 航空写真を見ればわかるように、サハリン(樺太)はほとんどが山で、南樺太の平地は海岸に面した猫の額のような場所しかない。そのなかで唯一の例外がユジノサハリンスク(豊原)一帯で、東西の山に囲まれた盆地になっている。

 ここから海に出るには、南のコルサコフ(大泊)か、北のスタロドゥブスコエ(栄浜)に行くしかない。豊原と栄浜はかつて樺太鉄道が結んでいた。

 1922年11月、最愛の妹で、家族のなかで唯一の理解者だったトシを結核で失った宮沢賢治は大きな衝撃を受けた。妹の魂が北の果てに行ったと思った賢治は翌年、当時、日本の最北端だった樺太に渡り、列車で栄浜まで来る。この浜を夜通し歩いた賢治は、その朝の風景を「オホーツク挽歌」で「海面は朝の炭酸のためにすっかり銹びた」と詠った。『銀河鉄道の夜』は、トシの魂を追って樺太鉄道を北に向かった体験がモチーフになっているともいわれる。

 帝政ロシアの末期には、サハリンは流刑の地だった。

劇作家・小説家のアントン・チェーホフは30歳のときにサハリンを旅し、その体験を『サハリン島』にまとめた。「かもめ」や「桜の園」の人気作家が詳細な調査にもとづくノンフィクションを書いていたことは、村上春樹氏が『1Q84』で紹介したとことで日本でも知られるようになった。

サハリンから稚内へはフェリーも出ている

 ユジノサハリンスクの中心部から30分ほど歩いたところに大きな共同墓地があり、その一角に、この地で亡くなった日本人を追悼する合同墓碑がある。いまも墓参者が定期的に訪れているらしく、きれいな花がたむけられていた。

 対岸の北海道・稚内には、宗谷海峡を見晴らす高台(稚内公園)に、樺太で亡くなった日本人を追悼する慰霊碑「氷雪の門」が建立されている。

 サハリンからの帰りは、コルサコフ(大泊)からフェリーを使った。運航は夏のみで、今年は9月21日で終了。稚内市によれば、2019年の運航は未定(ロシア側の補助金次第ということらしい)。

 フェリーは思いのほか小型で、幸いなことに穏やかな海だったが、それでも4時間の船旅のあいだかなり揺れた。飛行機よりも旅情はあるものの、船酔いしやすいひとは避けたほうがいいかもしれない。

 サハリン(樺太)の日本統治時代の建物はほとんどが木造で、老朽化のためこれからどんどん解体されていくだろう。訪れるならお早めに。


橘 玲(たちばな あきら)

作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本(新潮文庫)など。最新刊は、『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書) 。

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