船戸与一の『金門島流離譚』を読んでから、ずっと金門島を訪ねたいと思っていた。

 主人公は元敏腕商社マンの藤堂義春で、今は落ちぶれて金門島で密貿易のビジネスをしている。

なぜ金門島かというと、そこが「現代史のなかでぽっかり開いた空白の島」だからだ。

 金門島は、中国・福建省の港町アモイからわずか2キロほどしか離れていない。この島が特別な理由を藤堂は、作中でおよそ次のように説明する。

 日本統治時代の台湾とは、台湾本島と澎湖島のことで、金門島や(同じく福建省の沿岸にある)馬祖島は含まれていなかった。だが国共内戦に敗れた蒋介石軍が台湾に落ちのびるとき、人民解放軍の追撃に備えて金門と馬祖に兵力を残したため、いまも台湾の実効支配が続いている。中国共産党は、1949年の上陸作戦と58年の砲撃戦でこの2つの島を奪還しようと試みたが果たせなかったのだ。

 とはいえ、台湾国民党が受け継いだのは旧・日本の版図だけだから、国際法上、金門と馬祖が台湾領だという根拠はどこにもない。金門島では台湾ドルが流通し、台湾の教育が行なわれているが、島民にはここが台湾領で、自分たちが台湾人だという自覚があまりない。かといって、中華人民共和国の領土だとも考えておらず、どこにも帰属意識のない奇妙なことになっている。

 中国共産党はもちろん、金門島を自国の領土と見なしている。金門島の住人は「中国国民」になるから、金門島の戸籍を持っていればアモイの入管は査証なしで通過できる。すなわち、彼らは中国と台湾をビザなしで自由に行き来できるのだ。

 そのため金門島は、煙草や高級ウイスキー、ブランデー、音楽CDやゲームソフト、高級ブランドの衣類やバッグ、時計などのコピー商品の一大集積地になった。たとえばブランド品のバッグは、タイから送られた原材料を広東省の山のなかの秘密工場で加工したもので、鑑定士でなければ偽物と見破られないくらい完成度が高い。そんなコピー商品が、現代史の空白を利用してこの島に集まってくるのだ……。

金門島の歴史

 1958年に台湾海峡を挟んだ砲撃戦が勃発すると、金門島は軍事的要衝として一般人の立入りが厳しく制限され、島内には台湾軍の精鋭部隊が展開された。1996年の台湾総統選挙で独立派の李登輝が優勢に立つと、「一つの中国」を国是とする中国共産党政府は大規模な軍事演習を行ない、それに対抗して米軍が台湾沖に空母を派遣したことで、東アジアの軍事的緊張は一気に高まった。

 しかしその一方で、中国が改革・開放政策で市場経済と外資導入に大きく舵を切るにつれて、両国の関係は大きく変わっていった。

 もともと台湾人(本省人)の多くは福建省の出身で、台湾語は閩南(ビンナン)語(福建語)とほとんど同じだから、彼らは異なる国の国民というより同郷人だ。東南アジアで成功した華僑財閥の多くも福建の出身で、彼らが台湾人の企業家や投資家とともに故郷の町や村に工場を建て、積極的に投資したことで、かつては中国でも貧しい省のひとつとされた福建は大きく発展した。

 こうして、台湾海峡の危機から10年も経たないうちに、アモイ(福建)と台湾は急速に経済的に一体化していく。

 軍事の最前線だった金門島は、92年に戒厳令が解除された後、多くの台湾人が訪れる観光名所になった。その後、中国が台湾人の渡航を緩和したため、金門島経由でアモイを訪れるツアーが大人気になった。金門島の商店は台湾人旅行者のために中国本土の(コピー商品を含む)安い物産を並べ、アモイの町には金門島経由で台湾の物産が流れ込んだ。

 これが、『金門島流離譚』の背景だ。

金門島へ渡る

 以前は外国人の渡航が禁止されていたというが、アモイの東渡港国際フェリーターミナルから金門島に渡るのは拍子抜けするほど簡単だった。

 チケットは行きが160元、帰りが650台湾ドルで、日本円にして1000円前後だ。出入国管理はあるものの、大きな荷物がなければ税関はフリーパスで、外国に行くというよりも近くの島に遊びに行く、という感じだ。

 平日にもかかわらず客室は半分くらい埋まっていて、その多くは中国人の観光ツアーのようだった。1時間ほどで金門島の水頭碼頭に着くと、ATMで台湾ドルを下ろし(ATMは隣の出発ロビーにしかなく最初は戸惑った)、タクシーで10分ほどの金城に向かう。ここが金門島の中心地だ。

 金門島の魅力は、経済発展前の中国・台湾の片田舎の古い街並みが残っていることだ。軍事優先で都市開発が制限されていたためで、台北が近代都市になるにつれて“古きよき時代”を懐かしむひとたちがやってくるようになった。趣のある道教寺院の前に戦前の日本のような古い木造の商店街がつづき、観光客相手に土産物や貢糖(ピーナッツ飴)などを売っている。

 金城は30分もあれば一周できる小さな町で、団体客が泊まれるるような大型ホテルはない。台湾からの観光客は、古い街並みと、翟山(ディーサン)坑道などの中台紛争の遺跡を駆け足で見学すると、そのまま水頭フェリーターミナルからアモイに向かう。

街はひなびた田舎の観光地という雰囲気で、時折、駐屯する台湾軍の兵士たちとすれ違うものの、彼らの表情から緊張は窺えず、若い男女が雑談しながら歩いている様子は軍服さえなければデートのようだ。

 2001年から金門島・馬祖島と中国のあいだで小三通と呼ばれる通商、郵便、直行航路が開始され、2009年には金門島の住民だけでなく台湾人も、出入境証明があれば金門・馬祖から直接中国大陸に渡ることができるようになった。こうして金門島発着の中国ツアーが人気を集めるようになったのだが、経由地であるこの島に大きな恩恵をもたらすことはなかったようだ。

 船戸与一の『金門島流離譚』が出版されたのが2004年で、それから10年もたたないうちに、「パチモノの島」の様子もずいぶん変わってしまった。船戸はこの島を「すべてが偽物でできている」と描いたが、観光客相手の土産物屋に並んでいるのはいまは地元でつくる高粱酒や海産物の干物ばかりだ。コピー商品は(すくなくとも表舞台からは)姿を消し、衣料品店には中国産の安い服やバッグ、靴などが並んでいる。

 コピー商品の代わりに、いまでは包丁が金門島の特産品になった。58年の砲撃戦の後、島のひとたちが鉄の砲弾を溶かして包丁をつくるようになったのが始まりで、「金門剛刀」は包丁の高級ブランドだ。

『金門島流離譚』では、殺人事件をきっかけに、「ニセモノの島」に次々と「ニセモノ」たちがやってくる。だがひなびた街をいくら歩いても一片の禍々しさも感じられず、名物の蚵仔麵線(牡蠣入りソーメン)を食べてアモイに戻ることにした。

はるかに台湾らしい中国・厦門

 金門島が観光地としていまひとつ飛躍できないのは、アモイが金門島よりもはるかに「台湾」化してしまったからだ。

 アモイAmoyというのは廈門(シアメンXia Men)の閩南語読みで、中国人貿易商の父と日本人の母を持つ鄭成功が、明末・清初にアモイと台湾を清への抵抗運動の拠点にしたことで知られている。

このことからわかるように、もともとアモイと台湾は同じ文化圏というか、同じ地域の本土と島の関係にある。

 アモイの繁華街は中山路だが、ここには「風台(台湾風)」の看板を掲げた土産物店がずらりと並んでいて、海産物を中心に台湾や金門島の特産品はすべて買える。その近くには「台湾夜市」という屋台街があり、台北の道教寺院・龍山寺の夜市にも劣らぬ賑わいだ。海外旅行には縁のない中国本土のひとびとにとって、アモイはいまでは「パスポートなしで行ける台湾」になった。

 アモイの最大の観光地はコロンス島で、街の中心にあるフェリー乗り場から片道8元(約100円)、所要時間10分ほどの距離だ。

 コロンス島は、アヘン戦争後に結ばれた南京条約で、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本など列強の共同租界が置かれ、各国の領事館や学校、教会などがつくられた。赤レンガ造りの洋館が立ち並ぶ一角は、まるでヨーロッパの街に迷い込んだかのようだ。世界遺産に登録されたことで中国全土から観光客がやって来るようになったが、路地に入ればいまでも往時の雰囲気を感じることができる。

 コロンス島は、いまでは台湾からの観光ツアーの最大の目玉でもある。島を見渡す日光岩やホワイトハウスを模したアモイ博物館は、中国と台湾の観光客でいっぱいだ。

 中国と台湾は2つの異なる「国」だが、福建のひとたちは、北京や上海、広東の人々とは普通話でなければ会話ができず、台湾のひとたちとは母語である閩南語で話している。だとしたら、彼らのアイデンティティはどこにあるのだろう。

 アモイの台湾夜市で台湾B級グルメの鶏肉飯を食べながら、そんなことを思った。

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