清涼院流水(せいりょういんりゅうすい)という小説家がいる。だいっキライな小説家だ。
いまはもう読むことはなくなっちゃったけど、デビューした頃の何冊かを読んだ。読めば読むほどムカつくので、やがて新刊が出ても買わなくなった。どういう小説を書いているのかというと、うーんそうだな、ひと言で説明するのがとても困難な、とにかくヘンな小説だ。

彼の書くものは、いわゆる“新本格派ミステリ・ブーム”の延長上にある作品なんだけど、お世辞にもまともな推理小説だとは言い難い。なにしろ「1200個の密室で1200人が殺される」という犯行予告が届いたり、「全人類殺害計画犯罪オリンピック」が開幕されたりといったような、常にちょっとタガの外れた設定で物語が始まるのだ。

そのうえ、ミステリだったらどんなに奇怪な謎があっても、最終的にはすべて論理的に謎が解明されて読者はカタルシスを得るのがお約束であるはずなのに、清涼院流水の小説は、そのもっとも肝心なところを平然と放り投げてしまったりするのだ。で、言うに事欠いてこの先生は、「自分の書くものは“小説”ではなく、“大説(たいせつ)”である」などと豪語するのだ。うわー、ムカつくーーー!!

さらに、この先生は文体にも大きな特徴があって、意味もなく文中の単語で韻を踏んだり、物語の内容とは無関係に行ごとの文字数を揃えてみせたり、あるいは駄洒落やアナグラムを駆使するなどして、とにかくレトリックで遊ぶのだ。ある小説では、巻末に記載されている総原稿枚数が「777枚」だったりしたよ。やつの性格からすれば、明らかにゾロ目を意識しているわけよ。ムッカつくーーー!!

さて、そんなこんなでしばらく距離を置いていた清涼院流水大先生なのだが、10月に出たばかりの新刊の内容を聞いて驚いた。それは小説(おっと、大説でございましたな)ではなくてドキュメンタリー。
それも「マイケル・ジャクソンの伝記」なのだという。すごく意外。どういうことなんだろう。ていうか、あの文体で? マイケルの伝記を? ガゼン興味がわいてきたおれは、早速読んでみた。序章の冒頭を引用してみよう。

------------------------------
 インディアナ州は、アメリカ合衆国の中央部からやや東に位置している。その最北の市がゲイリーだ。ミシガン湖の南に広がるゲイリーの街中では、建ち並ぶ製鉄工場の煙突が濛々と煙を吐き出し、視界を曇らせている。全米でもっともアフリカン・アメリカン(黒人)の人口比率の高いゲイリーの貧しい大家族の家にぼくは生まれ、「MJ」というイニシャルの名を与えられた。
------------------------------

って、一人称なのかよ!

つまりこれは“伝記”ではなくて“自伝”なのだ。2009年に死んじゃったマイケルの自伝が、2010年に別人の手によって書かれたのだ。すごいことするよなあ。
……と思って読み進んでいくと、さらに衝撃的なことが起こる。この序章で自分を「MJ」と呼んでいる“ぼく”は、ジャクソンファミリーの五男マイケルではなくて、四男マーロンだったのだ! またこうやって無駄にレトリックを駆使するんだよ、この先生は。ムッカムカつくーーー!!

正直に告白するけど、この段階でおれは秘かに心を掴まれてしまっていた。あれほどムカついていた清涼院流水の作品だけど、なんだか「おもしろい」と思ってしまったのだ。

そうこうするうちに序章が終わり、第一章からはちゃんとマイケル自身が“ぼく”として語るようになると、おもしろさが急速に加速していってページをめくる手が止まらなくなる(だってマイケル・ジャクソンの人生だもん、つまらないわけないよな!)。
ジャクソン5としての成功と解散、ジャーメインとの確執、クインシー・ジョーンズとの出会い、『スリラー』の世界的成功、尋常性白斑症への罹患、襲いかかるバッシング、リサ・マリー・プレスリーとの結婚……。
本当は清涼院流水が書いてるんだけど、読んでいるとそんなことはすっかり忘れて、完全にマイケルと同化していく自分に気づく。みんな、どうしてぼくの気持ちをわかってくれないの? ぼくはただ、最高のパフォーマンスで世界中をハッピーにしたかっただけなのに!

ここでハッと気がついた。そうだったのだ。清涼院流水氏もこの本を書くために資料を集め、マイケルの評伝や記事を読み込んでいくうちにマイケルと“同化”してしまったのだ、と。だからこその一人称だったのだ。

してやられた。
またしても清涼院流水に。ポゥ!(とみさわ昭仁)
編集部おすすめ