他人の葬式や通夜に参列するのは面白い。……なんて言うと語弊があるけれど、通夜のあとの会食などで親族や古い友人から話を聞き、故人の思いがけない一面を知ったという経験は、誰しもあるのではないだろうか。


2008年3月に亡くなった“物書き”草森紳一を偲び、昨年末に<草森紳一回想集を作る会>が自費出版した『草森紳一が、いた。ーー友人と仕事仲間たちによる回想集』(限定1000部)は、通夜の席に故人の友人知人や親類が久々に集まって、昔話でワイワイ盛り上がっているような、そんな趣きの本だ。

草森紳一という人は、60年代から評論活動を始め、マンガ、広告、写真、デザイン、建築、歴史など幅広いテーマで執筆し、70歳で亡くなるまでに50冊近い著書を残した(未完のため本になってない原稿もたくさんある)。マンガやテレビCMなどは、まだまともに論じる人がいなかった頃から積極的にとりあげており、その意味ではサブカルチャー評論のパイオニアともいえる。

マンガ評論では、1966年に月刊誌「話の特集」で「手塚治虫の功罪」と題し、当時の手塚の作品について、〈(1)ページを開いた瞬間の印象は、ガタガタに全体が混乱していて、廃墟のようだ。/(2)セリフの運びが澱んでいてムダが多い。
/(3)擬音の使用が効果ポイントをえていない。/(4)映画的画面転換が、やたら角度に凝るシンマイの映画監督のようだ〉
などと表現の衰えを指摘した(引用は、竹内オサム・村上知彦編『マンガ批評体系 別巻 手塚治虫の宇宙』に再録された同稿より)。マンガ評論というと、テーマやストーリーに重点が置かれることが多かった時代にあって、このような表現・技法論的な批評はまだあまりなかったのではないだろうか。

草森はこの文章を、「読んだら手塚さんがすっ飛んでくるような論文にする」と言っていたと、「話の特集」の編集・発行人だった矢崎泰久がくだんの回想集に書いている。そのもくろみは見事に当たり、草森の連載3回目が発表された直後、矢崎が朝、編集部に行くと、手塚が反論の原稿を持参して待っていたという。以後、両者の論争は何号か続き、やがて手塚が同誌で一年間マンガを連載することにもつながった。


『草森紳一が、いた。』からは、このような意外な人と人とのつながりが見えてきて面白い。同書のなかでは複数の寄稿者が、晩年の白髪に白髭という風貌、またマンションの一室にひとり、あふれんばかりの書物のなかで暮らしていたことから、草森のことを「無頼」「仙人」と呼んでいる。だが彼はけっして世間との交渉を絶っていたわけではない。自宅近くには「シサム」という行きつけのレストランがあり、店の人たちがマンガについて……たとえば『スラムダンク』の話をしていても食いついてきたというし、あるいは演劇評論家の中村哲郎によれば、歌舞伎の中村勘九郎(現・勘三郎)を囲む文化人らの集まりには、毎回ほとんど出席していたという。

ほかにも、ジャーナリストの筑紫哲也やばばこういち、映画監督の藤田敏八などとは麻雀仲間だったこと(その縁で、筑紫の番組「NEWS23」にも出演している)、婦人画報社の編集者時代に、「婦人画報増刊 男の装飾」から「メンズクラブ」への誌名変更を発案したことなど、草森ファンの私も知らなかった話は多かった。
あと、映画「釣りバカ日誌」で、スーさんこと鈴木社長の秘書がクサモリというのは、かつてスーさん役の三國連太郎から親鸞の映画の脚本を頼まれた縁(けっきょく実現しなかったようだが)から草森紳一に由来するのではないか……と、実弟の草森英二が推理していたりするのも愉快だ。

とりわけ強烈なのは、巻末に再録された「草森紳一さんを偲ぶ会」(2008年6月に開かれた)の出席者あいさつで、直木賞作家の車谷長吉が明かしたエピソードである。長吉というペンネームは、中国の唐代の詩人・李賀(李長吉)からとったものだが、この命名はそもそも草森の「現代詩手帖」での連載「李長吉伝」を読んで決めたという。

話はこれだけで終わらない。大学卒業後、詩人の清水哲男を介して草森と面会した車谷は、それから1年ばかりして、処女小説が文芸誌「新潮」に掲載されるにあたり車谷長吉と初めて名乗った。ところがその直後、彼は草森から呼び出される。
そして会ったとたん、「李長吉の名前を取って車谷長吉というのはどういう了見なんだ。その了見をおれに話せ!」と叱責されたという。

この逸話からは、李賀が草森にとっていかに思い入れのあるテーマであったかがうかがえる。慶應義塾大学中国文学科の卒論からして、李賀と美空ひばりや西洋の詩人やモダンジャズが比較されるという、本人いわく“無恥破天荒”なものだったそうだし、郷里の北海道音更(おとふけ)町に建てたサイロ型の書庫の「任梟盧(にんきょうろ)」という名前も、李賀の詩からとったものであった。

「任梟盧」は1977年、建築家・山下和正(余談ながらこの人は先日、NHKの「ブラタモリ」に古地図研究家として出演していた)の設計により完成し、約3万冊の本が収められたものの、草森の蔵書はそれ以後も増え続けた。〈私たちの世代には、一定量の蔵書をベースに研究テーマを発想し、展開し、執筆するというbehaviorが残っていた。
(中略)一冊一冊が過去の生の欠片をなし、総体をもって有機的な人生をなしている。だれがこの「整理」を欲するであろうか。目前の要不要に従い、保存や廃棄、あるいは処分や売却などの仕分けを欲するであろうか。草森さんが、このような感覚を嫌悪していたことは確かである〉
と、慶大の「推理小説同好会」での先輩であり評論家の紀田順一郎は書いている。いま流行りの「断捨離」などとは正反対の考え方だ。ここまで来るともはや本人の趣味志向という次元を超えて、業(ごう)のようなものすら感じさせる。
本好きというよりは、本にとりつかれた人生。

回想集の巻頭と巻末に掲載された、草森の長年の友人で詩人の高橋睦郎による追悼詩「読む人 または書刑 草森紳一に」でもまた、本にとりつかれた人物として草森が描かれている。

《読んだ書物は端から積んで 天井に届き
さらにあらたに積みつづけて 壁面を侵す
食うための場所 寝るための空間など
書物に占領され 疾うに消え失せた
幾十幾百とない書物の塔の 僅かな隙間に
尻を置き 脚を抱いて 膝の上で読みつづける
(中略)
読みながら消耗し 衰弱して いつか倒れ
そのまま死ぬだろうことは わかりきっている
文字を案出し 書物を創出した人間を自覚し
自らに課する刑罰 書刑そのまま屈葬》

馬場美耶子(ばばこういち夫人)の寄稿「類なき変人」によると、生前「本の隙間にボクは住まわせてもらっているんだ」と語っていたという草森は、文字どおり本の隙間のなかで一生を終えた。

草森が亡くなったとき、その住まいにあった本は3万冊を超えたという。さて、その蔵書はといえば、一括して故人の郷里にほど近い帯広大谷短期大学に寄贈され、昨年11月にはそのうち約2000冊を展示する「草森紳一記念資料室」が同短大にオープンした。展示される以外の蔵書は、音更町の廃校となった小学校に保管され、ボランティアによって整理が進められている。個人の蔵書というのはたいてい、所有者が著名でもその死後には散逸してしまい、まとめてどこかで保存されるということはほとんどない。草森のケースは快挙だろう。

私も一ファンとして、機会があったらぜひこの資料室に足を運びたい。いや、機会があればと言っているうちはきっと行かないだろうから、必ずや近いうちに現地を訪ね、このエキサイトレビューでレポートをするつもりである。まずは、乞うご期待ということで。

※回想集『草森紳一が、いた。』は、希望者にも実費(送料込み3300円)で頒布されている。
お問い合わせは、<草森紳一回想集を作る会> info@harumi-inc.com か、FAX 03-3487-7278まで。
(近藤正高)