本日をもってグランドプリンスホテル赤坂(東京都千代田区)の新館が閉館する。しかし、去る24日には東京都が、閉館後の同ホテルを東日本大震災での被災者たちの一時避難施設として提供すると発表、“最後のご奉公”として注目が集まっている。
プリンスホテルの公式サイトによれば、被災者の受け入れは来月から、解体工事が開始されるまでの3カ月間を予定しているという。

グランドプリンスホテル赤坂の新館は1982年に竣工、翌年3月に赤坂プリンスホテル新館としてオープンした(現在の名称になったのは2007年から)。“赤プリ”と通称される同ホテルは、西武グループの経営するプリンスホテルでは初の超高層であり、最先端・最高級のデートスポットとしてバブル期前後の若者たちの人気を集めた。ホテル敷地のすぐ近くにある弁慶濠(旧江戸城の外濠のひとつ)や脇を通る首都高速道路との組み合わせもあいまって、ランドマークとしても強い存在感を放っている。

そのデザインも独特で、ほかのオフィスビルから客室が見えないよう、部屋のユニットを一列ずつずらしてジグザグ形にするなど(このため、部屋に入るといきなり窓際に出るというユニークなものとなっている)の工夫がほどこされている。同ホテルの設計を手がけたのは、戦後日本を代表する建築家の丹下健三だ。健三の息子でやはり建築家の丹下憲孝が最近上梓した手記『七十二時間、集中しなさい。ーー父・丹下健三から教わったこと』によれば、赤プリの新館は、《デコラティブで、大広間の照明がシャンデリアが主流だったのを、白主調で、照明はフラットな光天井という機能的なものに変えた》点でも日本のホテルの歴史上、画期的であったという。

同書を読むと、丹下健三にとって赤プリが、単に設計したというだけでなく、家族との思い出が詰まった場所であったことがわかる。丹下家では、毎年正月には赤プリの新館に家族と泊まってすごすのが慣わしとなっていた。そうやってホテル暮らしをしてすごす正月にはよく映画を観に行ったそうなのだが、何を観るかは家長である健三がすべて決め、なかでもお気に入りはジャッキー・チェン主演の映画だったという(これは意外)。ちなみに正月を自宅ではなくホテルですごすのは、お手伝いさんが休みをとるから、というのがいかにもセレブらしい。


赤プリはまた、オープニング・パーティで健三により憲孝の婚約が発表され、のちに結婚式が挙げられた場所でもあった。この本には、その結婚をめぐるいきさつについても明かされている。憲孝の夫人はイタリア系アメリカ人女性で、大学の卒業旅行先のハワイで知り合ったという。それから3年ほどして、憲孝は彼女を東京の自分の実家に誘うのだが、このとき母親(つまり丹下健三夫人)は息子と外国人女性との結婚に難色を示す。とはいえ、憲孝はまだ大学院生という立場もあり、彼女と結婚の話などしたことはなかったのだが。

そんな息子を後押ししたのが、父・健三だった。健三の、彼女をまた東京に呼んではどうかとの提案から、翌年の正月、家族と彼女はふたたび食事をともにする。その席で健三は、《現代的なアメリカ人というよりは、まるで中世のイタリア女性のような、しっかりした人じゃないか》と絶賛したあと、いきなり彼女に《どうです? 僕のこの息子と、結婚してはいかがですか?》と切り出したという。息子の代わりに父がプロポーズしてしまった、というわけである。

このエピソードについて憲孝は、グレイゾーンの存在しない父らしいと書いている。確固たる基準を自分のなかに持った父は、それを満たしているか、満たしていないかがすべてであったというのだ。グレイゾーンが存在しないということは、赤プリの内部の色調が白で統一されているという点にも現れている。
もっとも「無」に近い色で、人や物をいちばん引き立てる白こそ、健三の愛した色だった。仕事場の書架、壁や机もすべて白だったという。

健三の性格や志向として憲孝はほかにも、几帳面で整理整頓が大好きだったということをあげている。蔵書はすべて書架にならべておかないと気が済まないし、机の上に何か置いてあると仕事ができない。書類を綴じるホッチキスの位置も決まっており、事務所に新人が入るたび、まずホッチキスのとめ方を教えていたとか。

そんな性格が、健三の仕事における独特の発想を生んだのではないかと憲孝は推測している。健三の作品の多くは、単に建物を設計するのではなく、それを街全体のなかに位置づける都市計画の性格をもふくんだものだった。その際、キーワードとなったのが「軸線」である。たとえば、彼が戦後手がけた最初のビッグプロジェクトというべき広島市の平和記念公園では、100メートル道路・原爆ドーム・平和の灯・慰霊碑・広場・平和記念資料館がひとつの軸線(健三はこれを「祈りの軸」と考えた)でつながれている。また、1970年の大阪万博の基本設計(マスタープラン)でも、会場の中央を南北に貫く軸を「幹」に、そこから動く歩道が「枝」として各方面に伸び、「花」である各パビリオンを支えるという形がとられた。「軸線」という発想は、その後の世界各地での都市計画、新宿パークタワーなどでも用いられており、まさに建築家・丹下健三の全仕事を貫くものであった。

さて、丹下憲孝が父・健三のもとで働き始めたのは1985年、大学院を出てすぐのことだった。
彼が初めて大きな役割を担わされたのは、シカゴのアメリカ医師会本部ビルである。施工が始まると彼は2週間に一度、日本からシカゴに赴きプロジェクト・ミーティングへ出席するというハードスケジュールをこなすことになる。そのミーティングであるとき、経費削減のために柱を一本取りやめにしなければならなくなった。東京に帰って検討すると言う憲孝に対し、施主の部長が怒りながら「すぐに決めてもらわなければ困る。現場が止まってしまうぞ」と迫る。やむをえずその場で決断を下したという彼は、いまでもあの判断が正しかったのかと思うことがあるという。

ここでふと、先日放映されたNHKドラマ『TAROの塔』(たしか第2回)のあるシーンを思い出した。劇中、画家の岡本太郎(万博ではテーマ館の展示プロデューサーを務めた)が、大阪万博のシンボルゾーンに、70メートルもの高さの「太陽の塔」を設置するため、すでに丹下健三の設計していた大屋根に穴を開けようと提案したため大騒ぎとなる。小日向文世演じる健三は最終的にこの提案を受け入れるのだが、そのとき岡本に電話をかけ、「大屋根に大きな穴を開けるのは、構造上とても危険なことなんだよ」とクギを刺すのだった。

もちろん、細かい点においてドラマと現実は違うのかもしれない。だが、このとき丹下にさまざまな葛藤があったことはまちがいないだろう。健三が岡本の提案を受け入れたのはけっして妥協ではない。
先述の本のタイトルであり、健三自身がよく口にしたという「七十二時間、集中しなさい」という言葉には、何事にもとことんまで集中して、考えに考えた上で結論を出せという意味が込められていた。きっと、このときも考えぬいた末の決断だったはずである。

健三は21世紀に入るとすぐ、88歳で引退する。2003年には、健三の設立した設計事務所「丹下都市建築設計」の社長に息子の憲孝が就いた。西新宿に同事務所が手がけたモード学園コクーンタワーが完成したのは、健三の亡くなった3年後、2008年のことである。いま、健三の代表作のひとつである国立代々木競技場から新宿方面を眺めると、コクーンタワーはやはり健三の設計した東京都庁舎とパークタワーに挟まれている。《私にはそれがまるで、父が二つの目で、コクーンタワーをじっと見守っていてくれるように思える》と憲孝は書いているが、いや、他人から見れば、東京都心のランドマークをこれほど手がけているなんて、つくづくすごい親子だなと思わされる。(近藤正高)
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