三島賞作家の佐藤友哉が『デンデラ』という作品を発表したときにも、そんな衝撃を受けた。それはこんな設定だ。
舞台はどこかの寒村。この土地では口減らしのため、70歳になった老人を雪深い山に棄てるという風習がある。主人公、斎藤カユも70歳になったので、とうとう棄てられることになった。ところが、山の棄て場で気を失っていたはずのカユは何者かの手で助け出された。なんと、山をはさんで村とは反対側の場所に、これまで棄てられてきた老婆たち49人がひそかに生き延びて、デンデラと呼ばれる集落を形成していたのだ。
すげえ! まず、この設定だけで心をつかまれてしまう。ところが、これだけじゃない。
斎藤カユは「お山では素直に死んで極楽浄土へ行く」と信じていたので、先にお山へ行っていた女たちが未練たらしく生きていることが受け入れがたかった。けれど、みんなと生活するうちに、少しずつ打ち解けはじめていく……と思ったところに、とんでもない厄災が襲いかかってくる。巨大な羆(ひぐま)だ。
どうよこれ?「誰が書いても絶対におもしろい作品になる」といった意味がおわかりいただけただろうか。すごいアイデアにはそれだけで物語を動かす力があると思うが、この『デンデラ』は、まさしくアイデア一発で傑作になることを約束してしまった作品なのだ。
姥捨て山モノの名著「楢山節考/深沢七郎」も、人喰い熊モノの大傑作「羆嵐/吉村昭」も、どちらも大好きで何度も読み返しているわたしだけど、この『デンデラ』には心から嫉妬したね。小説家でもないのに「この物語は自分が思いつきたかった!」と思ったよ。その一方で「誰でもいいからはやくこの物語を書いて、そして読ませてくれ!」とも思った。それぐらい設定に力がある。誰でもいいってことはないか。思いついたのは佐藤友哉なんだから。
というわけで、期待に胸を膨らませて『デンデラ』を読んでみたわけだが、たいへん満足のいく作品だった。設定のインパクトに目を奪われて見過ごしそうになるけど、そもそも満足に食料もない冬山でオーバー・セブンティの老婆が生きながらえるのは非現実的だし、それらが人喰いグマに立ち向かうっていうのも、かなり無理がある。
でも、そういう無理な部分を「さもありそうなこと」に思わせてしまうのが、小説の力なんだよな。
読みはじめは、文体が「ですます調」なので、正直なところ違和感を覚える。なんというか“よそよそしい”わけ。ところが、読み進めるうちに、これは神の視点(=昔話の語り部)なんだな、というのがわかってくると、その違和感も消えてしまった。
あとは嵐のように降り掛かってくる災難に翻弄されながら、一気に最後まで読めてしまうだろう。
(とみさわ昭仁)