動物と人間の関わり方にはさまざまな形がある。「おーよしよし」なんてネコの背中をなでているすぐ横に、ミンクの肛門に電気ショック装置をブッ込んで剥ぎ取って作った毛皮がハンガーにかけてあったりする。
面白いギャグだな、とは思うけど、良いとか悪いとかは僕は別に思わない。

僕もさまざまな動物と、色々矛盾した関わりをもってきた。初めてやった動物実験は、たぶん6歳ごろにやった『アリはチューイングガムを食べるか』だった。特に面白いことも起こらず、実験の結果得られた知識は、「砂のついたチューイングガムを拾って紙に包んで片付けるのは、とてもダルい」って感じだったと思う。大人になってからは、自分の将来のために動物実験を行った。魚類に対しても、ネズミたちにも供養は欠かさなかったけど、それは自分が次の実験で後ろめたくならないようにするものだったと思う。施設の敷地内にある慰霊塔に、オリジナルのお経を唱えたあと、食堂で食べるシーチキンに対しては何も思わないことが多かった。ズタズタにしたシーチキンって、マグロの顔を思い浮かべにくいし。僕ってなんて勝手な生き物だろう。

最近もっとも頻繁に関わっている動物はニワトリで、どこか知らない国でぎゅうぎゅうのニワトリ工場で育ったニワトリをよく食べてる。超スピードで人間が食べるのに適した感じになるように品種改良されたやつで、不衛生な工場で病気のまま育ち、太陽を見たことが無いものも多い。「首切りマシン」とか「もも肉だけカット装置」とかが並ぶベルトコンベアを通過したやつを、安い値段で買うのがマイブームで、かれこれ10年間ぐらい依存してる。
経済的な余裕が出てきたらやめたいと僕は思ってる。

人間は動物をかわいがるし、いじめるし、崇拝するし、殺す。その基準もバラバラで一貫性が無い。そういう人間と動物について徹底的に研究しまくってる人が書いた本が『ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係』だ。興味深い様々な調査結果や研究の紹介、冒険的で勇気に満ちた考察が何百ページも続く。

ある調査によると、動物保護の寄付を集めるときに、その寄付総額が何に比例するかといえば、保護対象動物の目がどれだけ大きいかということだという。人間の保護は、人間の赤ちゃんに似たかわいさを持った動物に偏っているとも言われる。そういえばWWFのロゴには、パンダがくっついてる。

動物虐待は女性よりも男性が行っていて、動物愛護は逆だが、そもそも虐待も愛護運動も大半の人はやっておらず、性差はわずか。ただ、動物虐待のうち、飼い切れないほどの大量の動物を家に連れ込んで、家の中を地獄にしてしまう人間は、女性の方が圧倒的に多い。…などなど延々さまざま、意外な事実もわりと混ざってる。

こうした色々な研究や考察を読んでいると、人間って何がしたいのかナゾだなあと思えてくる。
「実験動物に比べてペット動物は幸せな一生を送っている」と、何の迷いもなく思える人は幸せだと僕はよく思う。かわいいと人間が思えるように品種改良されたペットの一部は、骨格異常を起こしやすいし、「ペットの幸せのため」に行われる去勢は、文字通り動物としての根幹機能を死ぬまで消し去る手術だ。そもそも自分よりデカい動物に飼われるの、僕なら嫌だ。

食べるためなら何をやっていいのかと言えば、それも何とも言えない。歴史的に貴族的・紳士的な意味やイメージがあるからと言って、競走馬を人間が保有していることが正当化されるとも思えない。こういうこと、少しでも考えた事がある人なら問題の複雑さ厄介さを知ってると思う。一部の人類が、すくなくても何百年とか話し合ってきた問題だ。

日本のワイドショーでは、過激な捕鯨反対運動を行う「シーシェパード」を、「トンデモおもしろ集団」としか報じない。彼らがどういう意図で、どういうスポンサーで動いているかとかは、誰も考えやしない。もし日本のワイドショーやその視聴者に、クジラやイルカぐらいのレベルでいいから知性があればなあと僕はちょっと残念に思うんだけど、そんなこと思ってる暇があったら次の本を読んで、人と考えを話し合ったりした方が有意義だとも僕は思う。同感だって人には是非本書はおすすめ
(香山哲)
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