赤塚不二夫『酒とバカの日々』をぱらぱらと読んでいたら、赤塚先生が私の大好きな喜劇役者、由利徹について語っているところがあった。ちょっと引用します。


――ボードビリアンの由利徹こそ、オレがもっとも尊敬する人物なんだよ。どのくらいバカかって言うとね、由利さん、長年にわたって喜劇界に貢献したとかで何年かまえに紫綬褒章もらったんだよ。
そのときテレビのリポーターに、“こういうものおもらいになって、どういうお気持ちですか”なんて聞かれたんだ。そうしたら由利さん、なんて答えたと思う。
「あー、女抱きてえ」
そう言ったんだよ。

「少年サンデー」で長年先生の担当記者を務めた武居俊樹が書いた『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』という本がある。その中にとても好きなくだりがあるので、これもちょっと読んでもらいたい。武居記者が赤塚担当を解任され、お別れに二人で飲んだときの話だ。

――二人は、(美空)ひばりの唄を聞きながら、ひたすらビールを飲む。もっと強い酒が欲しい。僕は立っていって、ダルマと、グラスを二つ持ってくる。グラスになみなみとウイスキーを注ぐ。

僕の記憶は、ここまでだ。その夜のことは、ほとんど覚えていない。かすかに覚えているのは、赤塚の言った次のセリフだ。
「ずっと馬鹿でいなよ。利口になりそうになったらね、『お○○こ』って、大声で一〇八回叫ぶんだ。そうすると、また馬鹿に戻れるよ」(括弧内は引用者)

赤塚先生にとってバカであることは、人間としてとても大事な条件だった。先生の長女である赤塚りえ子が書いた『バカボンのパパよりバカなパパ』によれば、ボーイフレンドだった英国人の男性を先生に初めて引き合わせたとき、緊張していた彼は好きな映画は何かと聞かれてフェリー二の「8 1/2」と答えた。それを聞いた先生は「こいつ理屈っぽいぞ!」と呆れたそうだ。理屈っぽい、というのは先生の駄目だしの一言なのだ(でもりえ子は後にその男性と結婚した。彼も若くて、かっこつけたい年頃だったんだろうなあ)。
先生は2002年4月10日に脳内出血で倒れ、そのまま意識が戻らなくなって6年余をベッドの上で過ごし2008年8月2日に亡くなった。『バカボンのパパよりバカなパパ』には、脳内出血で倒れてICUに運ばれた日のことがこう書いてある。


――心配したスタッフがパパの手を握り、その手を胸に抱え込むと、パパはニコニコしながら言った。
「あっ、オッパイだ!」

結局これが最後に残した言葉になってしまうのである。すごいよね、最期の言葉が「あっ、オッパイだ!」なんだもの。余談ながら五代目柳家小さんの場合は、孫の花緑に「ウンチ出ますか」と聞かれて「出ねえ」と答えたのがやはり最期の言葉になった。小さんは人間国宝だ。

武居記者じゃないけれど、私は自分が変に利口になってしまった(バカのくせに)と感じるときには、赤塚先生の漫画を読んだり、言葉を読んだりして真人間に戻るようにしている。赤塚先生には素敵な名言がたくさんある。

「自分が最低だと思ってればいいんだ。みんなより一番劣ってると思ってればいいんだよ。そうしたら、みんなの言っていることがちゃんと頭に入ってくる。自分が偉いと思ってると、人は何も言ってくれない。自分が一番バカになればいいの。
何でも言ってくれるよ」(『バカボンのパパよりバカなパパ』)

『酒とバカの日々』は1996年に先生が出した『赤塚不二夫のハチャメチャ哲学』に他で発表した原稿を加え、再構成した本だ。テーマは、
「おまえらオ○ニーばっかりしてないで酒場に行って女の子をくどいてこいよ」
である。
赤塚先生は1990年代の初めころに「週刊プレイボーイ」で人生相談をしていたが、そのノリがちょっと残っている。若者にお酒を飲むように盛んに進めているが、当時はまだアルハラなんて概念はなかったので許してあげてほしい。もともと先生はお酒なんてあまり飲めなかった(男6人でやる忘年会にビールを6本しか用意しなかったぐらいだった)。
売れっ子漫画家になって急に付き合いが増え、たくさんの人たちに囲まれるようになって大酒飲みになった。シャイな先生にとって、最初は周囲との潤滑油みたいなものだったのだ。
だからこの本でも「いい酒を飲め」とか「ワインならこれがいい」なんてつまらない薀蓄は全然出てこない。
そうじゃなくて、お酒を道具に使って人と仲良くなるにはどうしたらいいか、みたいな楽しい話がたくさん書いてあるのだ。いくつか引用するよ。今日は先生のいい言葉をたくさん聞く大会なのだ。

――それにな、酒飲んで女にしつこくまとわりついて、口説いているヤツも見苦しい。
もうすこしサラッとできないのかな。酒の場のハーモニーをぶっこわしてまでやることじゃないよ。
オレなんか、ポルノ女優が五、六人いる席だって、酒飲んで盛り上がっているときに口説いたことないよ。ほんとうだよ。おまえらなら、もう頭のなかは、オ○ンコでいっぱいになっちゃうんだろうけどな。

――オレは酒飲んで人にからんだりしないから、飲んでるわりにはトラブルが少ないほうなの。とにかく酒はたのしくなきゃ酒じゃないと思っているからね。たとえ人にからまれたって、すぐあやまっちゃうんだ。
「すいません、ぼくのお尻でよかったら、使ってやってください」って言っちゃう。

――それはともかくとしてもだよ、自分だけの小さな世界から抜けられないヤツは好奇心がないんだ。オレなんか、世の中の知らないことにものすごく好奇心をもっていたから、毎日がおもしろかった。豆腐屋のおっさんと隣り同士になったら豆腐の作り方聞くんだよ。
八百屋のオヤジと飲んだら、何時ごろ起きて仕入れに行くの? なんて聞いたよ。たったそれだけでいいんだ。自分とはぜんぜん違う生活している人たちとの話って、けっこうおもしろいんだ。わかるか?

赤塚先生は酒場ですぐ人と仲良くなっちゃう名人だったみたいだ。中州でタモリを発見したのも酒場だったし、酒場で出会った仲間たちと「下落合焼き鳥ムービー」なんて最低の映画を作ったりもしている。
実は私は、この本の親本が出たころの赤塚先生が少し嫌だった。才能を浪費しているように思っていたからだ。はっきり言ってしまえば、タモリみたいな天才はともかく、つまらない文化人なんかにおだてられて神輿に担がれているように見えるのが嫌だった。へんな取り巻きと別れて、昔みたいな漫画を書いてほしかった。『天才バカボン』は、今でも私にいちばん勇気を与えてくれる本だ。そういう傑作がまた読みたかった。お酒を飲むのを止めてほしいと願っていた。

でも違ったのだ。1996年頃の赤塚先生は、もう自分が昔のような形では漫画を書けないことを知っていたのだと思う。『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』に詳しいが、先生は徹底した分業制をとった日本で初めてのギャグ漫画家だった。作画はもちろん、ネタ出しも専用のスタッフを雇い、編集者まで巻き込んで会議をし、ネームを書いていた(サンデーの武居記者が、他誌の漫画のネタを出したこともあるという)。『おそ松くん』で主人公の六つ子の顔のシールを作り、それを貼って原稿を書いていたのは有名な話だ。おかげで先生は早く飲みに行けたが、切り貼りをさせられた古谷三敏は難渋したらしい。
でも先生は、そうした才能を拘束しなかった。古谷やとりいかずよし、高井研一郎に北見けんいちといったフジオ・プロの黄金期を支えた有能なひとびとが先生のもとから巣立っていった。その結果、もう同じようには漫画を書けなくなっていたのだ。赤塚先生の全盛期は1970年代、長くみても『ギャグゲリラ』を連載していた1982年までだろう。それ以降代表作といえるものはない。
しかし先生は赤塚不二夫であることを止めず、読者にバカであることの大事さを教え続けた。会う人みんなに、身をもってそれを示そうとした。
『酒とバカの日々』は、そんな先生が心をこめて呟いた言葉を本にした作品だ。
 お酒は無理に飲まなくていい。みんな、これを読んでもう一度バカに戻ろうぜ。
(杉江松恋)
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