首都圏の大手私鉄のひとつ京王電鉄の聖蹟桜ヶ丘駅では、来る4月8日より列車接近メロディとしてアニメ映画「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」が流されるという(京王のニュースリリース)。「耳をすませば」はいうまでもなくスタジオジブリの作品で、監督をいまは亡き近藤喜文が務めた(公開は1995年)。


大山顕・佐藤大・速水健朗によるユニット「団地団」のトークライブをまとめた『団地団 ベランダから見渡す映画論』では、“団地映画”の一つとして「耳をすませば」がとりあげられている。同作ではその冒頭の30分、主人公の住む団地の様子が執拗に描かれているからだ。著者のひとり佐藤大によれば《あれはもう団地を描きたくてしょうがない人が描いている》という。その「団地を描きたくてしょうがない人」とは誰か? それは監督の近藤ではなく、脚本・制作プロデュースなどを担当した宮崎駿ではないか、というのが3人の推測だ。

面白いのは、同じジブリ作品でも、高畑勲監督の「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994年)が団地建設による自然破壊を批判的に描いたものだったのに対して、「耳をすませば」では団地を否定も肯定もせずに映画上欠かせないものとして描かれているということだ。ここから話題は、宮崎と高畑の自然観の違いにまでおよぶ。
トークでの速水健朗の発言を引用すると――

《[引用者注:「平成狸合戦ぽんぽこ」は]人間によって破壊される自然という分かりやすい古典的エコロジスト的な発想で作られている。同じエコロジストでも、宮崎駿ってシニカルなエコロジストであって、人間が作る団地もまた自然の一部であるという目線があると思うんですよ》

さて、「団地団」とは、一昨年(2010年)12月に開催されたロフトプラスワンでのトークライブを機に結成されたユニットである。メンバーのうちフォトグラファーでライターの大山顕は、『工場萌え』(2007年)などの著書でドボク系写真集ブームを巻き起こす一方で、以前より「住宅都市整理公団」というウェブサイトを運営する団地鑑賞の第一人者だ。また速水健朗は、ケータイ小説やショッピングモール、ラーメンなどさまざまなものを通じて、日本人の生活やそれを取り巻く都市やシステムの変化を考察しているライター・編集者である。そして佐藤大は、アニメ「カウボーイビバップ」『交響詩篇エウレカセブン』などの代表作がある脚本家であり、団地で育った経験から団地に興味を持つようになったという。

団地団のトークライブは不定期ながら現在も継続中で、本書はその最初の4回分を、加筆・再構成して単行本化したものだ。
そこでは、映画のほかドラマ、マンガ、小説など数多くの作品がとりあげられているのだが、作品自体を論じることよりも作中で団地がいかに描かれているかということに重点が置かれている。ライブの観客も観客でマニア濃度は高く、前出の「耳をすませば」に出てくる団地のモデルがどこなのか、大山が《多摩市の百草団地ですよね?》と確認すると、すかさず《客席から「愛宕団地」の声》が上がるといった按配で楽しい。

団地団の3人のなかでも佐藤の発言には、団地育ちならではのものが目立つ。たとえば、市川崑監督の「私は二歳」(1962年)をとりあげたくだり。2歳児の視点から描くというユニークなこの映画では、一戸建てと団地のどちらが住みやすいかについて言及されているのだが、佐藤はこれについて以下のように考察する。

《1962年の段階では一軒家に住んだほうがおばあちゃんもいるし安全だと。
「私なんかね、家で生まれたものよ」っていう象徴的なセリフがあって、要するに2歳の赤ん坊は病院で生まれてくる世代ということなんです。団地=人が家で生まれたり死んだりしなくなったってことを意味している。僕の惹かれる作品には、文化的なモチーフとして生と死をどう描くかというものがあるんですが、団地では公民館で葬式をやるわけです。団地に住んでいたのでよく分かっているんですけど、団地に住むということは、自分の死、あるいは身内の死を団地の自宅では迎えられない。つまり生と死は住から切り離された瞬間に初めてやって来るわけです》


この発言を読んで、ぼくがふと思い出したのが森田芳光監督の「家族ゲーム」(1983年)だ。団地を舞台としたこの映画には、主人公家族の隣室に住む若い女性(演じるのは戸川純)が、寝たきりの義母が亡くなったらどうしたらいいのか、「あのエレベーターじゃ棺桶も入らない」と悩みを打ち明ける場面があった。
ここでもまた、団地が死から切り離された存在であることがうかがえよう。

「家族ゲーム」については本書でも団地映画の代表的な作品として何度か登場する。そのラスト、主人公の母親(由紀さおり)が昼寝をする背景でヘリコプターの音が大きくなっていくシーンについては、公開当時から評論家のあいだで論争があったという。しかし、「家族ゲーム」を団地映画の系譜に位置づけることで、これにはちゃんと元ネタたる作品が存在したことがあきらかにされる。ちなみに本書では、「家族ゲーム」と、日活ロマンポルノの第1作として有名な「団地妻 昼下がりの情事」(1971年)との意外な関連性も指摘されている。これについては先述の元ネタとあわせて、ぜひ本書で直接確認していただければと思う。


団地団は、“団地探偵団”といえるかもしれない。そう思ったのは第4章、横溝正史の小説『白と黒』(1960年)を大山が紹介するくだりだ。団地が登場する横溝作品では異色作である『白と黒』に登場する「日の出団地」とはどこなのか? 実在する同名の団地(東京都足立区)は小説よりもあとに建てられたものなので別物であることは明白。そこで大山は、作中から団地の立地を説明する箇所を拾い集め、ネット上のアーカイブにある資料と照合させながら、くだんの団地の所在地を突き止める。同時にそこが近年、とあるテレビアニメの舞台になった団地であることも判明して、ジグソーパズルの最後のピースがハマったような爽快感があった。

終章にあたる第5章では、「世界の団地から」と題して韓国やフランス、イギリスなど各国の団地映画をとりあげるとともに、現在の日本の団地をめぐる状況についても触れられている。
たとえば、各地の団地は入居者の高齢化という問題を抱える一方で、最近では若い世代の入居も目立つということ(先頃NHKで放映された山田太一脚本のドラマ「キルトの家」は、まさに団地に住む老人たちと新たに入居してきた若い夫婦の接触を描いたものだった)。さらには日本で働く外国人の流入もここ10年のあいだに増え、大規模団地が続々と外国人コミュニティ化しているという。その理由を、大山は《公共住宅は年収によって家賃が増減するし、審査も民間の住宅に比べて敷居が低いので日本在住の外国人にとっては住みやすい場所》なのだと説明する。

戦後、1955年に日本住宅公団(現・都市再生機構)が発足し、主に中流勤労者向けに住宅供給を始める。高度成長初期の当時にあって、住宅公団の建設した団地は庶民にとり憧れの存在であった。だが、かつて住宅公団が意図した階層やライフスタイルとは異なる価値観を持って団地に住む人たちが出てくることで、団地は初めて真のインフラになりえたのではないか……という一応の結論のあと、本書は次のように締めくくられる。

《大山 (中略)だからね、団地はまだ終わってないんですよ。
佐藤 そうですよ。「団地はまだ始まってすらいねぇ」っていうことです》


……って、どこかで聞いたようなセリフだな(笑)。ともあれ、とかく過去形で語られがちな団地だが、実際にはいまなお変化し続けているのだ。そんな変わりゆく団地をフィクションはどう描いていくのか。そしてそれら作品を団地団はどう読み解くのか? 彼らの活動に今後も目が離せない。(近藤正高)