好きな選手のカードをズボンのポケットから取り出しては、そのダイナミックな打撃フォームを真似して、「ぼくもこんなふうにホームランが打てたらなあ……」とつぶやく。
そうやって成長していくうちに、野球カードは手元から消え、いつしか忘れ去られていく。でも、それでいいのだ。野球に興味をもった男の子が、カードを参考にして選手の名前を覚えたり、成績表の読み方を覚えていく。野球ファン人口の何割かは、確実にカードを入り口にして増えてきた。それが野球カードの本来の役目だから。
このように、野球カードというのは野球ファンへの入り口として「通過」するためのものであり、それでいいと思うのだが、でも、それだけじゃ済まない人達もいる。
野球カード・コレクターだ!
カードが1枚2枚と増えていくのがうれしくて仕方なかったあの頃の気持ちをいまでも引きずって、そのまんま大人になっちゃった人達。もちろん、わたしもその一人で、数年前にメジャーリーグのカード収集から手を引いたときにかなり処分したんだけど、それでもまだコレクションファイルの中に1000枚やそこらのカードは残してある。たまに引っ張り出してながめると、やっぱりいいんだよねー。
こうした野球カードのルーツは、アメリカのガムカードにある。
世界初の野球カードは、いまから125年前。ニューヨークのグッドウィン&カンパニーという会社がタバコのパッケージに野球選手を描いたカードを封入したのが始まりとされている。ただ、これは「子供がカード欲しさにタバコを買う」という問題が出てきたために廃止され、1930年代あたりからチューインガムのおまけとして野球カードが付けられるようになった。
やがて、カードはおまけから独立した商品へと進化していくわけだけど、とにかくガムのおまけカードという位置付けが長く続いていたのは間違いない。
それに対して、日本の野球カードはポテトチップスとともに始まった。
これも、厳密に言えば戦前のメンコだったり、1950年代に売られていた紅梅キャラメルのおまけカードだったりするんだけど、主流となるのは1973年に発売が開始されたカルビーの「プロ野球チップス」だ。そしてこの、野球カードのおまけ付き「プロ野球チップス」は、40年経ったいまでも変わらずに発売され続けている、驚異のロングセラー商品なのだ。
そんな歴史あるカルビープロ野球カードだけども、残念なことにこれまできちんと語られてきたことがないんだな。なぜなら、日本にはプロの野球カード評論家と呼べるような人物がほとんど存在していないから。
わたしの知る限り、カードを専門に文筆活動をしているのは、日本スポーツカード協会会長の廣重嘉之氏と、報知新聞社の入江英毅氏と、トレカ制作者兼ライターのしゅりんぷ池田氏ぐらいしかいない。あと、手前味噌ながら『底抜け!大リーグカードの世界』という著書のあるわたしもこの末席に加えてもらってもいいかもしれない。
さて、いまここで名前の出てきたしゅりんぷ池田氏が、この度、スポーツカードの専門誌『Sports CARD MAGAZINE 2012年5月号』から短期集中連載を始めた。
今月号に掲載の第1回目では、カルビープロ野球カードの前史と、その誕生秘話、そして主な70年代の名作カードが紹介されている。
著者の池田氏について、少し補足しておこう。
彼は香川県高松市に生まれ、早稲田大学を卒業してカルビーに入社する。そこでプロ野球チップスを担当したのち、1993年に「Jリーグチップス」を企画して大ヒットを飛ばす。その後、エポック社に移籍して数々のトレカをプロデュースし、スポーツカードショップ・チェーン「ミント」の立ち上げにも参画。現在はフリーランスでベースボールマガジン社のカード制作に関わりながらカード文化の普及に尽力する、筋金入りのスポーツカード野郎だ。
ペンネームの“しゅりんぷ池田”は、カルビー時代に看板商品の「かっぱえびせん」にちなんで付けられたもの。退社後はカードをコンプリート(完集)する意味で“こんぷ池田”と名乗っていた時期もあるが、いまはまたファンに馴染み深いしゅりんぷ池田に戻している。
そんな池田氏の連載「カルビーカード40年のあゆみ」は、紙幅の都合で1回分が見開き2ページとボリューム的には物足りないが、長年、野球カードを見つめてきた人物だけに、その内容はとても興味深いうえに、資料性も高い。
今和次郎の考現学じゃないけれど、こういう消えていってしまう“紙くず”の歴史を記録しておくのって、すごく大事なことだと思うんだよね。
今後、連載は「80年代編」「90年代編」「00年代以降」と続くそうだけど、これで終わらすのはもったいないなあ。
(とみさわ昭仁)