ドーハの悲劇はテレ朝で見た。
もちろん、あの試合がテレビ東京で中継されたことは知っている。
日本時間深夜にもかかわらず、同局史上最高の48.1%の視聴率を記録し、日本中がテレビ東京系の映像に釘付けになったからこそ、今日まで語り継がれる「悲劇」となったことは有名なお話。でも、テレビ東京は我が故郷・福島ではネットされていなかったのだ。

当時、BSもなかった我が家ではラジオで聴くしか方法がなかったのだが、いかんせん家にあったのはノイズばかりをお届けしてくれるポンコツラジオ。そんな困った私を助けてくれたのがテレビ朝日だった。今なら考えられないが、当時テレビ朝日で生放送していた深夜番組「トゥナイト2」の中で、サッカー解説でおなじみの金田喜稔さんが、進行する番組の横でモニターでサッカー中継を見て、状況を逐一報告するという、まさかの「ニコニコ生放送応援スタイル」のような形を取っていたのだ。
果たして、後半ロスタイムに同点ゴールを決められた瞬間、金田さんは「あっ」とだけ言葉を発し、すぐにうつろな表情となったことで、事態を飲みこむことができた。だから、私にとっての「ドーハの悲劇」の画は、頭を抱えたゴン中山でも、うなだれたラモスでもなく、物憂げな金田さんの表情でインプットされている。そしてこの時、東京にあるという「テレビ東京」にあこがれを抱くことになる……まあ、それは後に過大な妄想だったと気づくのだけれど。

完全に横道から入ってしまったが本題に移りたい。今回の取り上げたいのはテレビ朝日でもトゥナイト2でもなく「テレビ東京」だ。テレビ東京の前身「東京12チャンネル」時代のスポーツ中継に携わった男たちのドラマを綴った『東京12チャンネル 運動部の情熱』が面白い!

そもそも、なぜ全国にテレビ東京を含め6局しかなく、かつては「三強一弱一番外地」と“TV番外地扱い”されていたテレビ東京系列でW杯予選が放送されたのか。
1993年のJリーグ開幕直後であり、中継権獲得の段階ではまだサッカーがブームになる前だったから、というのもあるだろうが、むしろ当時、テレビ東京こそがサッカー中継の大家だったから、というのが大きな理由であるだろう。
伝説のサッカー番組「ダイヤモンドサッカー」で日本におけるサッカー中継の礎を築き、日本のサッカー文化の屋台骨を支えてきたのがテレビ東京の前身「東京12チャンネル」だったことに、本書を読めば気づかされる。
第1章「12チャンネル運動部の夜明け」において、「ダイヤモンドサッカー」番組誕生の経緯、インターネットもない時代における情報収集の難しさが語られているのだが、中でも今日のテレビ東京に通じる「らしさ」を感じるエピソードが、1974年西ドイツW杯決勝戦の衛星生中継だ。この日は、参議院議員選挙の投開票日。他局が軒並み開票速報を流す中で、東京12チャンネルは期待にたがわぬ対応を見せてくれる。

<開票速報に背を向けたのは12チャンネルだけだった。サッカーを愛するこの局だけは4年に一度の世紀の大勝負を放送していたのだ。関東ローカルであるがゆえに他局に比べたら報道部が弱いという事実を逆手にとった大胆な編成だった。>

上の記述を読んで、なぜか顔をほころんでしまうのは私だけではないだろう。今日の“何があってもアニメを放送”するテレビ東京のDNAはここから生まれているのかもしれない。

この例に漏れず、他局とは逆をいく戦略こそが東京12チャンネルのスタイルだ。“TV番外地”であるがゆえ他局の後じんを拝することが多く、予算も少なかった東京12チャンネルにとって、他がまだ目をつけていない競技、他がまだやっていない中継スタイルこそが勝負所であり、その着眼点のオリジナリティや創意工夫の過程が非常に興味深い。それが結果、数々の「日本初」や「独占中継」に結びついていくのがまた本書の読みどころだ。

東京12チャンネル運動部が手がけた「日本初」「独占中継」、その一部を挙げるだけでも何とも豪華なラインアップだ。

・サッカーW杯全試合放送(1970年メキシコワールドカップ)
・本場アメリカのプロレスを伝える「プロレスアワー」
・ボクシング伝説の世界戦、カシアス・グレイ(モハメド・アリ)vsフレージャー
・正月の風物詩、箱根駅伝(1979年~86年まで。87年以降が日本テレビ)
・一世を風靡した「ローラーゲーム」の日本招致
・日本で初めてマイク・タイソンの試合を流したのも12チャンネル
・なでしこジャパンのルーツとなる女子サッカーをはじめて放送したのも12チャンネル

また、競技や番組そのものだけでなく、東京12チャンネルから生まれた中継スタイルや技法・話法も数多くあることに驚かされる。

・野球中継におけるセンターバックスクリーンからの映像(それ以前はバックネットからの映像が主流)
・野球中継でのSBO表示やランナーの有無(12チャンネルの技術部が秋葉原に通って開発!)
・バレー中継で監督にピンマイクをつけて臨場感を伝える手法
・サッカーにおける「ホーム&アウェイ」の概念を持ち込んだのが「ダイヤモンドサッカー」
・「ゲルマン魂」という言葉を放送ではじめて使ったのも「ダイヤモンドサッカー」

それぞれの経緯や苦労のほどはぜひ本書で確かめていただきたいが、中でも特筆すべきはアマチュアスポーツに光をあてる「サンデースポーツアワー」という番組を立ち上げたことだろう。

<東京オリンピックはそれまでに大衆娯楽として根付いていたプロ野球や大相撲以外のスポーツを世間一般に浸透させた一大イベントであったのだ。このように日本人のスポーツに対する意識が大きく変わっていくなかで、『サンデースポーツアワー』は生まれた。アマチュアスポーツは単なるマイナースポーツではなく、世界につながる窓であった。>

この番組では、サッカー、ラグビー、テニスだけでなく、アイスホッケー、ハンドボール、アメリカンフットボール、リトルリーグ、果てはロシアの格闘技サンボなど、今ならCSの専門番組でしか見られないような競技を次々と取り上げていく。また、既存の大会を放送するだけではなく、時には放送のために大会までも作ってしまったことがあるという。

<それまでアマチュアスポーツを放送していたのはNHKだけだったから、そういう意味でNHKは我々を羨ましがっていた。『サンデースポーツアワー』が12チャンネルとアマチュアスポーツの絆を強くした。今でもテレビ東京が卓球や柔道の国際大会を放送しているのはこの番組のおかげですよ。

こう語るのは、東京12チャンネル運動部をまとめあげ、長い間運動部長を務めた白石剛達氏だ。本書の主人公とも言える白石氏は早大レスリング部監督兼レスリング全日本チームの強化コーチとして、東京五輪でのレスリング種目金メダル5個獲得という偉業に貢献したまさに豪腕。その腕っ節で他局に刈り取られた後のスポーツ界を耕し、種を植え、独自のパイプや交渉術で次々とビッグイベントを勝ち取っていく。そのさまは読んでいて気持ちよく、特に第3章「1970年の快進撃」において、メキシコワールドカップの全試合放映権、プロ野球日本シリーズの独占中継権、モハメド・アリの世界戦中継権を獲得していく怒濤の流れは痛快の一言だ。

また、実際に競技に打ち込んできた元アスリートだからこそ、白石氏はスポーツやアスリートを「リスペクト」し、昨今のタレント起用でお茶を濁すスポーツ中継に疑問を投げかける。

<野球やサッカーにしても、中継にタレントを連れてきて、ワ~ッとやっているじゃない。スポーツ中継は本来、いかに見やすくするか、カメラでいかに感動させるかに尽きると思うんだけどね>
<ウチがやるのはショースポーツであって、スポーツショーではない。真剣にやるから、みんな引きつけられるわけですよ。>


オリンピックやサッカーW杯予選中継における、競技以外の部分でのお祭り騒ぎに辟易した人であれば、本書を一気通貫する「スポーツ愛」や「放送の神髄」に拍手を贈りたくなるだろう。
著者である布施鋼治氏は、『吉田沙保里 119連勝の方程式』など格闘技に関する著作が多く、本書の中でも女子プロレスやキックボクシング、モハメド・アリのエピソードには特に熱量をつぎ込んでいるのまた見所だ。スポーツの秋にぜひともオススメしたい「絶対に見逃せない」一冊ではないだろうか。


『東京12チャンネル 運動部の情熱』
[第一章 12チャンネル運動部の夜明け(昭和42~43年)]
初代運動部部長・白石剛達という男/プロ野球中継スタート/マイナー競技に光を当てた『サンデースポーツアワー』/負けてたまるか! 男子バレーボールの逆襲/世界への窓『ダイヤモンドサッカー』
[第二章 新興スポーツで一世風靡(昭和43~44年)]
アメリカ直輸入、『ローラーゲーム』の衝撃/女子プロレス、1年5カ月の閃光/“真剣勝負"のキックボクシング
[第三章 1970年の快進撃(昭和45~46年)]
メキシコワールドカップ全試合放送/奇跡の独占中継、日本シリーズ「巨人対ロッテ」/モハメド・アリとニューラテンクォーター
[第四章 追憶の名物番組~テレビ東京の誕生(昭和46年~58年)]
富士スピードウェイ狂騒曲/「サメ対ワニ」の異種格闘技戦/白石の最高傑作『ヨーイドン! みんな走ろう』/箱根駅伝、映像のリレー/日本一早いスポーツニュースを作れ!
(オグマナオト)
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