会田誠、中村勘三郎、猪瀬直樹の各氏など、ここのところ人様の作品や経歴をまとめて振り返る、そんな記事ばかり書いているような気がする近藤でございます。そこへ来て、先週月曜(12月10日)、俳優の小沢昭一さんが83歳で亡くなりました。
小沢さんといえば、本業以外にも、日本の放浪芸をフィールドワークしてレコードや本を通じて紹介するなど、さまざまな顔を持った人でした。この記事では、いくつかのキーワードを立てながら、故人を偲んでみたいと思います。

■写真館の息子
小沢昭一さんは、2004年から亡くなるまで愛知県にある博物館明治村の村長を務めていました。日本の近代建築を各地から移築した明治村の一角には、「小熊写真館」という建物があります。かつて新潟県高田市(現・上越市)にあったこの写真館は、小沢さんとちょっとした因縁があります。というのも写真屋だった小沢さんのお父さんは、若い頃にこの小熊写真館で修業をしていたそうなのです。


お父さんはその後、上京して日暮里に写真館を開業するのですが、その建物は木村伊兵衛(昭和写真界の巨匠!)の写真館だったのを譲り受けたものだったとか。ただしまもなくして蒲田のほうに移ります。小沢さんが生まれたのはちょうどこのころで、1929年(昭和4年)のこと。

小沢さんのお父さんは腕はいいけど、仕上がりが期日に間に合わないことで近所では有名だったとか。それというのも、仕事を抜け出してはしょっちゅう、釣りや麻雀、川柳の会などに出かけたりしていたから。その気質はかなり小沢さんにも引き継がれたようで、のちにこんなことを語っています。


《やっぱり道楽商売っていうか、遊民性を父親から受け継いでいると感じますね。一般商人と写真屋は違いましたし、といって芸術家にしては、客商売ですからね》『小沢昭一座談4 こんばんは小沢です――ヘヘヘ』

写真館は当時としてはモダンな商売でした。そんな商売柄もあってか、少年時代の小沢さんは服も婦人洋装店でつくるようなものを着せられていたというから、なかなかのお坊ちゃんです。中学は私立の麻布中学。ここでフランキー堺、加藤武、仲谷昇とのちにやはり俳優になる友人たちと出会っています。同中学には、戦争末期、半年ほど海軍兵学校に在学したのち終戦後に復学、卒業しました。


■落語
子供の頃からラジオや近所の寄席で落語を聞いて育ったという小沢さん。色っぽい噺も多いことから《小学校を出る頃には、男女のことはほとんどマスターしてた》といいます(「週刊文春」2011年12月8日号)。

早稲田大学在学中には、当時どの大学にもなかったという落語研究会を友人たちと創設しています。ただしいまの大学の落語研究会とは違い、自ら落語を演じるのではなく、文献を漁ったりプロの噺家を呼んで鑑賞したりと文字どおり落語の研究が主な活動だったそうです。作家で演芸評論でも知られた正岡容(いるる)に師事したのもこの頃。

これだけ入れあげていたのだから、そのまま落語家になりそうなものですが、小沢青年は学生時代に見たある芝居(アメリカの劇作家ソートン・ワイルダー作の『わが町』)に感動したのがきっかけで新劇の世界に入り、俳優の道へと進みます。
もっとも、かなり歳をとってから、この選択は「大失敗だった」と語っているのですが、それはこんな理由から。

《落語は老人芸だと思うんです。ひとによって違いますけど、年をとればとるほど面白いっていう芸だなあと思いましてね。実利的に考えましても、倒れるまでやれる仕事ですしね》(小沢昭一・神崎宣武『道楽三昧』

とはいえ、俳優になってもまったく落語と無縁だったわけではありません。舞台から映画に進出した頃に出演した映画『勲章』(渋谷実監督、1954年)では、佐田啓二(中井貴一の父親)演じる落語好きの学生の付き人役に抜擢されています。こののち、小沢さんは大学の同窓生で日活の助監督となっていた今村昌平の推薦もあって、川島雄三の監督作品に何本も出演することになります。


■川島雄三
川島雄三の代表作といえば、小沢さんの中学の同級生であるフランキー堺が主演した『幕末太陽傳』(1957年)がまずあげられます。「居残り佐平次」を中心に多くの落語を下敷きにしたこの映画で、小沢さんは貸本屋の金造という落語「品川心中」に登場する人物を演じています。

『幕末太陽傳』といえば、昨年デジタル修復されて新たに公開されたことが記憶に新しいところ。ちょうど同時期に出た「週刊文春」での阿川佐和子との対談では、当時の思い出話をあれこれ語っています。たとえば、撮影所の化粧部屋で、川島組と黒澤(明)組が一緒になったときのこと。いずれの監督も強烈な個性の持ち主だけに、常連俳優たちの雰囲気もそれぞれ違ったようです。


《川島組はワアワア騒いでるんだけど、黒澤組はみんな深刻な顔してる。で、川島組の誰かが「ここで疲れた顔してるなんて、ロクなもんじゃねえよ」と言ってね。シーンとしちゃった。僕は手叩いたけど》(「週刊文春」2011年12月8日号)

何とも緊張感の伝わってくるエピソードです。川島監督をめぐっては、小沢さんはこんなエピソードも語っています。それは、助監督時代の今村昌平も交えて3人で飲んでいたときのこと。当時、今村監督は恐山の巫女に興味を持ち始めていたといいます。

《川島さんは恐山のすぐそばの生まれ育ちですから、今村昌平が恐山にふれると、言下に「あんなものは何もありません」。東北に文化なぞはない、というような意味でもあったんですけど。(中略)あのとき僕はしみじみと、陸奥の川島雄三が、都会風俗を描かせれば、銀座の女を描かせれば、並みいる監督の中で何たって一番うまいし、東京で生まれて東京で育った今村昌平が、一生懸命東北を珍しがっている、その何ともいえずむだな労力は、そばにいて不思議なものだと思いました。人間の好奇心という奴は、無いものに憧れるものなのか、と》(小沢昭一・藤本義一「我らが師匠・川島雄三監督の魅力的人間像をさぐる その1」、「キネマ旬報」1977年1月上旬号)

映画業界が全盛を迎え、数本立てでの上映が珍しくなかったこの時代、小沢さんはたくさんの映画に出演しました。トータルで200作は出ているようです。ただ、40歳を迎えようかという頃にはさすがに精神的に手詰まりを感じていたといいます。そこで彼が新たに始めたのが、高度成長の陰で日本各地で消えつつあった放浪芸のフィールドワークでした。思えば、小沢さんも今村監督と同様、東京出身で写真館というモダンな環境で育ったがゆえに、そうした地方の前近代的な芸能の世界に魅せられたのかもしれません。

■フィールドワーク
各地の放浪芸を訪ねてまわるきっかけは、『私は河原乞食・考』という本を書いたことでした。大道芸やストリップなどを考察し、それを踏まえて俳優である自分をみつめなおしたの同書に、日本ビクターの若いディレクターが関心を抱き、この本の内容をレコード化できないかと持ちかけます。それを受けて小沢さんは、この際、自分が以前より興味を持っていた大道芸などを訪ねて、記録に残そうと思い立ったのでした。

芸の採録は1970年3月から1年をかけて行なわれ、翌年6月に7枚組のレコード『日本の放浪芸』としてリリースされます。1万円以上する高価格ながら予想以上に売れ、その後もシリーズ化されることになりました。

このとき採録の旅に同行したディレクターの市川捷護(かつもり)さんはのちに『回想 日本の放浪芸』という本を著し、当時を振り返っています。面白いのは、小沢さんはすでに顔が売れていたにもかかわらず、テキヤの口上の採録のため神社の境内を終日まわっていても人から気づかれることはほとんどなかったということ。市川さんは《目立ちたくない時は(中略)周囲の風景に溶け込んでしまう術を心得ているのだろう》と書いています。

小沢さんのフィールドワークの対象は芸能にとどまらず、前出したようにストリップ、あるいはかつて「トルコ風呂」と呼ばれたソープランドなど、風俗の世界にもおよびました。トルコ風呂については『ドキュメント綾さん』というトルコ嬢への聞き書きをまとめた本も出ていますが、いわゆる風俗レポートとはちょっと違い、スケベな話はあまり出てこなくて、小沢さんの関心はむしろ彼女の人生やコミュニケーション術にありました。NHK特集「びんぼう一代~五代目古今亭志ん生~」という番組のなかでも、「人生でうれしかったのは、志ん生さんの落語を聞けたこと、もうひとつはトルコ(風呂)へ行けたこと」とさらりと言ってのけた小沢さんですが、ただのスケベではなかったのです。

……と、このように、小沢さんはじつにさまざまな顔を持ちました。いや、このほかにも、40年近く続いたTBSラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」をはじめラジオパーソナリティーとしての顔や、あるいは文筆家としても著書をたくさん残したことなど、とりあげなければならないことはまだまだいっぱいあるのですが、残念ながらスペースが尽きました。

ぼくとしては、「徹子の部屋」に出演するたび、黒柳徹子と一緒にコスプレしていたのが強く印象に残っているのですが(なかには2人がそれぞれセーラームーンとクレヨンしんちゃんに扮するというとんでもない回もありました)、近年の小沢さんはテレビはもっぱら見ることのほうが多かったようです。とくに深夜の番組はよく見ていたらしい。たとえば、ナインティナインの岡村隆史には早い時期から目をつけていて、《こいつ、体は動くし、労苦を厭わず何でもやりそうだから、エノケン[榎本健一――引用者注]になれるかな、なんて思って見ていました》と語っています(「文藝春秋」2002年2月号)。同じ記事では、深夜番組の人気企画「ハケ水車」についても出てきてびっくり。《あれがテレビの堕落の最高潮だったですな(笑)》と語りつつも、小沢さん、いかにもうれしそうなんですが。(近藤正高)