大好評のうちにシーズン3まで放送されたドラマ『孤独のグルメ』は、自分やその周辺の30歳半ばからそれ以上だったりするおっさんには説明不要の鉄板番組なワケですが、女性や、若年層には、「どうしておっさんが飯食ってるだけのドラマに中年のおっさんが熱狂するのか」がよく分からないと言う人も多いようです。自分なんて、「そんなにおっさんが飯食ってるところ見たいなら鏡見ながら食事すればいいんじゃないスか?」と、面と向かって言われて絶句したこともありますからね。
しかし、言われてみれば原作のマンガ『孤独のグルメ』もマンガ誌連載ではなくビジネス雑誌連載で全一巻。ロングセラーではあるものの超大ヒットしたわけでもなく、今のような熱烈な支持を受ける経緯や理由が見えにくい作品なのかもしれません。発表当初はマンガ好きの知る人ぞ知る作品だったところから、現在のグルメマンガの定番にまで支持されるようになった背景や、当時の時代の雰囲気はどんなものだったのだろうか。前述の「鏡見て食事してろ」といった若者にビビりながら『孤独のグルメ』の革新性を語った内容を書いてみることにしようと思う。
主人公ゴローちゃんこと井之頭五郎は、独身で自営業の雑貨輸入商という、作品世界からすれば幾分派手な設定がされています。サラリーマンのしみじみとした食卓を描くダケの作品なら、素直にサラリーマンにすればいいのに、なぜ昔は女優の彼女がいたという超イケてる人物像になっているのでしょうか? しかも愛車はBMWだったりボルボだったりと外車派。
その上、ゴローちゃんは『美味しんぼ』などのように食事のうんちくで確固たる思想を持った“より良い”料理を志向せず、“こんな店”で、“こういうのでいいんだよ”という納得の仕方をしながら食事をします。もちろん他のグルメマンガのように料理対決をしたりもせず、グルメマンガの中でも異端な位置にいるように思えます。というか、料理自体がはたす役割からしてもグルメマンガとひとくくりにするのに若干無理があるようにも感じます。
既存のグルメマンガと明らかに違うこれらの要素がなぜ生まれたかを考えるとき、参考になりそうなのは作品執筆時の1990年代前半の社会的状況、つまりバブル経済の崩壊です。
そんな社会的風潮の中、1994年から1996年に『孤独のグルメ』は男性月刊誌に連載されのです。井之頭五郎の輸入商という職業や背景はバブルっぽさの表現だとみることができます。バブルの狂騒を体現するような経歴で、サラリーマン的ではないスーツを着こなす人間が街中の定食屋や百貨店の屋上で、イタリア料理でもフランス料理でもないごく普通の料理を食べるという、アンバランスなおかしみがあったのです。原作の第1話「東京都台東区山谷のぶた肉いためライス」で、労働者に混じって下町の定食屋で食事を取ったゴローが退店時、他の客の奇異な視線を受けて、浮いていることを自覚する回で強調されています。
言ってみれば、大量消費社会の際限のない欲求に晒される立場の男は、食事という本能と切り離せない消費を通してのみ自分を解放できるというストーリーが全編にわたって大きな縦糸になっているのです。自然体でいても結局、消費であることからは逃れられないという限界の中で、自虐気味に地に足をつけた自分を確認するという儀式が、一人で思うままに料理を食べると言う行動であり『孤独のグルメ』の新しいポイントなのです。そのため、消費が全面に押し出されたオシャレなカフェやレストラン、そしてハンバーガーショップには苦手意識をもっている描写が意識的に描かれています。
これは、西洋物質文明を見直し、日本古来の「清貧」な生活をする! などといった大上段に構えた主張ではありません。自分自身がどっぷり物質文明に浸りきって恩恵を受けていることを自覚していながらも、そんな自分を受け入れていくという一種のブルースになっています。原作者久住昌之による劇伴も、ブルースや泥臭い音楽のチョイスが多いのもそのせいでしょう。
バブル崩壊後イケイケな価値観には乗っていけないが、「清貧の思想」で語られる生きざまを実践するほど達観もできないサラリーマンに、イケてる経歴なのに自分たちと同じ食事を愛し、どこか泥臭いゴローの黙々と食事をする姿が心に刺さり、売上げ以上の共感をもって迎えられたのです。
社会の歯車であることをわかりながら、その歯車同士のかみ合わせの遊びの中で、つかのまの自由を満喫する姿を描いた『孤独のグルメ』は、そう考えてみると、毎日の多忙な日々からつかのま逃れられる正月の三が日に放送されるのは、絶妙のチョイスと言えるかもしれません。
仕事と忘年会のラッシュで、なんとなく帰省をパスした自分も、一人孤独にゴローちゃんの食事姿を見て、なんていうか満たされた気持ちになりたいと思います。
(久保内信行)