両国の開戦のきっかけは、前月28日に、オーストリアの皇太子夫妻がボスニアのサラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で、セルビアに拠点を置く暗殺者グループに殺された事件だ(サラエボ事件)。7月24日にオーストリアが突きつけた最後通告に対し、セルビアはほとんどの要求を受け入れ、事件について一定の責任を認めた。だがオーストリアはこの回答を受け取るとその場で国交を断絶、宣戦布告するにいたったのである。
こうして始まった戦争は二国間にとどまらなかった。オーストリアの同盟国だったドイツや、この2カ国とバルカン半島で勢力争いをしていたロシア、さらにはフランス、イギリスと列強各国がそれぞれの理由から、8月に入ってあいついで参戦、戦争はヨーロッパ全体を巻きこんだものへと発展していく。こうした流れのなか、オーストリアとセルビアの戦争への関心は急速に脇に押しやられ、早くも忘れられた戦争になってしまった、と木村靖二『第一次世界大戦』(ちくま新書)は書く。
1914年8月23日には日本がドイツに宣戦布告、さらに下って1917年には、革命で帝政の倒れたロシアが戦争から離脱したのと入れ替わり、アメリカが参戦、戦争は世界規模のものとなった。
……と、概略を説明するだけでもややこしい。第一次世界大戦は、従来の国際体制の枠組みを崩すものであっただけに、その元となる枠組みを理解していないことには、その原因は容易につかめない。前出の『第一次世界大戦』はそのあたりを丁寧に整理し、戦争の経緯を時系列に沿ってくわしく解説する、“手堅い”一冊といえる。
同書は教科書的ではあるが、従来の定説とは異なる見解もところどころで出てくる。たとえば、大戦後の1919年に結ばれたベルサイユ講和条約は「ドイツ側に過酷な」条約だったという評価も、現在ではかなり修正されているようだ。
■大戦が日本にもたらしたバウムクーヘン
第一次世界大戦では先述のとおり、日本も早々に参戦している。しかし実戦は、中国のドイツの租借地だった山東省青島とドイツ領南洋諸島の占領によって2カ月ほどで終了、損害もごくわずかだった。大戦の主戦場はあくまでヨーロッパであり、代わって生産・輸出を担った日本とアメリカは濡れ手で粟の利を得たとは、よくいわれるところだ。
大戦と日本の直接的なかかわりとしては、戦闘と特需以外にもまだある。たとえば捕虜の収容。青島などで日本軍の捕虜となったドイツ兵たちは、まず日本国内の大都市の寺院などに収容された。1915年以降は、戦争の長期化に備えて大規模な捕虜収容所が各地に建設され、捕虜たちはそこに集約される。
国内の大規模収容所は、習志野(千葉県)・名古屋(愛知県)・青野原(兵庫県)・板東(徳島県)・似島(広島県)・久留米(福岡県)の6カ所存在した。このうち、広島港沖に位置する似島(にのしま)の収容所には、1917年になって、大阪の隔離所に収容されていた捕虜500余名が移される。
各地の収容所で、捕虜たちはそれなりに自由を認められつつ、さまざまな労働に従事していた。
翌19年、広島県物産陳列館で捕虜製作品展覧会が開催された。このときサンドイッチやコーヒーなど当時の日本では珍しかった食品も販売され、大勢の人が詰めかけた。とくにバウムクーヘンをはじめとする菓子はもっとも人気を集めたという。展覧会の初日の様子は「中国新聞」が伝え、これが日本人とバウムクーヘンの最初の出会いだとされている。なお、ユーハイムは1920年に捕虜生活から解放され、横浜に自分の菓子店を開いた(広島市オフィシャルサイト「日本で初めてバウムクーヘンが焼かれた地、似島」)。
国内の捕虜収容所には音楽活動の盛んなところもあり、習志野収容所ではヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」が、板東収容所ではベートーベンの「交響曲第九番」が日本初演された。また、名古屋収容所は市街地にあり企業が近くに存在したことから、とくに捕虜の雇用が盛んだった。大戦後の1920年に創業した敷島製パン(Pasco)が、製パン技師として迎えたハインリッヒ・フロイントリープというドイツ人も、名古屋収容所にいた元捕虜である。フロイントリープはその後、神戸に自分のパン工房を開いている。
捕虜収容所というと、捕虜が虐待を受けたり、強制労働を課せられたりといったイメージがどうしてもつきまとう。
大津留厚『捕虜が働くとき――第一次世界大戦・総力戦の狭間で』(人文書院)は、第一次大戦を捕虜の労働についてくわしく論じたものだ。本書は主に、ロシア各地に収容されたオーストリア捕虜兵と、オーストリアに収容されたロシア人・イタリア人・セルビア人捕虜兵をとりあげたものだが、後半では日本に収容されたドイツ人捕虜について一章が割かれている。
本書は「レクチャー 第一次世界大戦」という、第一次世界大戦をめぐるさまざまなテーマを一般向けに解説したシリーズの1冊だ。同シリーズのラインナップにはこのほか、イギリスの経済封鎖に起因するドイツ国内での飢饉をとりあげた藤原辰史『カブラの冬――第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』や、岡田暁生『「クラシック音楽」はいつ終わったか?――音楽史における第一次世界大戦の前後』など大戦期の芸術の動向を追ったものもあり、そのテーマは幅広い。また大戦期の日本を考察したものとして、山室信一『複合戦争と総力戦の断層――日本にとっての第一次世界大戦』がある。
■日英同盟と第一次世界大戦
井上寿一『第一次世界大戦と日本』(講談社現代新書)もまた大戦と日本の関係に焦点を絞った本だ。「外交」「軍事」「政治」「経済」「社会」「文化」とテーマを立てた各章では、大戦前後のさまざまな事象を通じて、現代日本の諸問題の原点をそこに見出そうとしている。
第一次大戦で日本は、青島と南方諸島での戦闘以外に、1917年にはイギリスの要請を受けて、連合国の商船護送やドイツの潜水艦鎮圧の任務のため艦隊を地中海などに派遣している。このころ日本とイギリスは同盟関係にあったのだから当然だろうと思いきや、じつは日本は1914年の開戦直後より、イギリスから派遣要請をたびたび受けながら、断っていたのだ。それは、日英同盟の適用範囲は地理上インドまでのアジアと決まっており、遠く地中海は適用範囲外だったからである。
井上はこれについてさらに、現在の日米同盟の極東条項との違いから説明する。ちょうど最近「集団的自衛権」が議論となっているだけに、この比較は興味深い。
《日米同盟の適用範囲は「極東」である。しかしこの「極東」は地理的な意味ではない。「極東」の平和と安全を守るためならば、「極東」以外の地域でも在日米軍は使用できる。/日米同盟は「人」=アメリカ(在日米軍)と「物」=日本(在日米軍基地の提供等)の同盟である。対する日英同盟は「人」と「人」との対等な軍事同盟だった。/対等な軍事同盟である以上、日英同盟に参戦義務はなかった》
それが1917年になって派遣要請の受け入れに転じたのはなぜか。この年2月、ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言、中立国の船舶をも攻撃対象としたからだ。
寺内内閣はこのとき、艦隊派遣の要請に応じる条件としてイギリスに対し、戦後の講和会議に際して、日本が中国山東省および南洋諸島を領有することを支持するよう申し入れた。この要求は認められ、ドイツ敗戦の翌年、1919年のベルサイユ講和条約によって日本はこれら地域を獲得したのである。
第一次大戦の講和条約で日本が得た南洋諸島の一部であるサイパン島やテニアン島は、それから四半世紀後、太平洋戦争中の1944年6月~8月にアメリカ軍に攻め落とされた。これにより日本の本土全体は、米軍の大型爆撃機B29の航続距離の圏内に入る。1945年8月6日には、テニアン島を飛び立ったB29「エノラ・ゲイ」によって、広島に原子爆弾が投下された。
原爆は、広島県産業奨励館の南東160メートルの上空で爆発した。この施設の竣工当初の名称は広島県物産陳列館という。そう、かつてバウムクーヘンが日本に初めて紹介された場所だ。爆風と熱線で全焼しながらも、特徴的なドーム屋根の骨組みなどを残して本屋の中心部の倒壊はかろうじて免れたその建物は、現在、原爆ドームと呼ばれている。
(近藤正高)