
間違いだったノーベル賞、幻に終わった日本人受賞者
じつはノーベル生理学・医学賞ではかつて、がんに関する研究が授賞しない時期が長らく続いた歴史がある。1926年には、デンマークの病理学者ヨハネス・フィビゲルが、胃がんの原因となる寄生虫の発見により受賞したが、その次のがん関連の授賞は、じつに40年後の1966年のペイトン・ラウスとチャールズ・ハギンズ(いずれもアメリカ)まで待たねばならなかった。これというのも、フィビゲルの没後の1952年、その授賞対象となった業績が誤りと判明したため、以来、選考委員会はがん研究の評価に対し、極端な慎重姿勢をとるようになったからだという(小山慶太『科学史人物事典──150のエピソードが語る天才たち』中公新書)。
そのフィビゲルと同じ年には、ある日本人研究者もノーベル賞候補にあがっていた。東京帝国大学(現在の東京大学)の教授だった山極勝三郎である。山極はドイツ留学中、病理学者のウィルヒョウに師事。帰国後は、師の唱えていた、外からの反復的な刺激ががんの原因とする仮説を証明するため、実験に乗り出す。その実験は、ウサギの耳にコールタールを長期にわたり塗り続けるというものだった。助手の市川厚一の協力を得て、途中で何度か実験をやり直しながら、日々地道な作業を繰り返した末、1915年にはついに人工的にがんを発生させることに成功する。山極は市川と連名で論文を発表、1919年には学士院賞を受賞した。
山極はこの業績によりノーベル賞の候補となったが、結局、フィビゲルの発がん実験のほうがオリジナリティが認められ、授賞から外された(馬場錬成『ノーベル賞の100年──自然科学三賞でたどる科学史 増補版』中公新書)。このとき、選考委員会ではフィビゲルとの共同授賞も検討されたものの、山極が論文に、フィビゲルの研究に触発されて実験を行なったと書いていたため、結局、フィビガーの単独授賞になったともいう(『科学史人物事典』)。
ノーベル賞、別人に贈られそうになる
がんに関するノーベル賞では、1988年にこんなハプニングも起こっている。この年は、「レトロウィルスの持つがん遺伝子が細胞起源であることの発見」という業績からアメリカのマイケル・ビショップが共同研究者のハロルド・ヴァーマスとともに受賞した。だが、選考委員会は授賞の決定を伝える際、誤ってべつのビショップ氏に電話してしまう。その研究者も授賞対象となったのと同じテーマを研究していたがゆえの間違いであった。翌日、誤りに気づいたスタッフは、あわてて謝罪の電話をかけ、あらためて本物のビショップに授賞を伝えたという(『ノーベル賞の100年』)。
授賞発表の3日前に亡くなっていた研究者
今年のノーベル生理学・医学賞の授賞対象と同じくがん治療につながる免疫の研究では、2011年に受賞したカナダ出身の生理学者ラルフ・スタインマンのエピソードが思い出される。
スタインマンは1973年、木の枝が何本も伸びたような突起を持つ免疫細胞(樹状細胞)を発見、その後、これを用いて感染症やがんのワクチンの開発を進めた。2007年には彼自身が膵臓がんを患ってからは、自分の研究を通して開発された免疫療法の被験者となることで、研究に貢献することになる。
治療の効果があったのか、膵臓がん患者の80%は1年以内に死亡するという平均生存率をスタインマンは大きく上回り、4年半が経った2011年9月半ばまで研究室で仕事を続けた。しかし、がんで弱った体で肺炎となり、9月30日に68歳で死去する。この日は金曜日で、遺族は週明けの10月3日にも彼の死を勤務していた米ロックフェラー大学に伝えるつもりでいた。スタインマン宛てにノーベル賞授賞の連絡が入ったのは、まさにその日の朝だった(『科学史人物事典』)。
ノーベル賞には1974年以来、故人には授与しないとの規定があるが、スタインマンは、授賞決定時に選考委員会がその死を把握していなかったとの理由により、特別に授与が認められた。
今回のノーベル賞を生んだのは「偶然」だった
今回、ノーベル賞の授賞テーマの前提となる免疫チェックポイント分子のうち、CTLA-4分子は1987年にフランスの研究者グループによって発見されたが、当初はがんとのかかわりはまったくわかっていなかったという。この分子をがん治療に応用することに気づいたのがアリソンだった。
アリソンは、CTLA-4がT細胞(Tリンパ球)によるがん細胞への攻撃にブレーキをかける働きをもつことをあきらかにし、その働きを抑えれば、がんによって免疫反応の抑制された状態を解除できるのではないかと思いつく。1996年には、がん細胞を植えつけたマウスに、CTLA-4をブロックする抗体を投与して、がん細胞の消失や退縮をもたらす効果があることを実証した。2011年には、この抗体を用いた世界初の免疫チェックポイント阻害剤・イピリムマブ(商品名はヤーボイ)が、手術不能の悪性黒色腫の治療薬としてアメリカで承認される(国立がん研究センター研究所編『「がん」はなぜできるのか そのメカニズムからゲノム医療まで』講談社ブルーバックス)。
一方、本庶佑はもともと分子生物学者で、がんの研究者ではなかった。1992年、免疫チェックポイント分子であるPD-1分子を発見したのもまったくの偶然で、その正体はすぐにはわからなかったという。そこでPD-1遺伝子をノックアウト(特定の遺伝子を欠損させて機能しないようにすること)したマウスをつくって観察したところ、自己免疫疾患を起こしていることが判明する。ここから本庶は、この分子が免疫システムのブレーキであると確信し、1996年に論文を発表した。同時に彼は、この分子ががん治療に使えるかもしれないと考え、新たに研究に着手。PD-1の抗体を用いたニボルマブ(商品名はオプジーボ)は2014年に日本、さらにアメリカでも承認されている(『「がん」はなぜできるのか』)。
画期的ながん治療法の発見へ道を拓いた二つの分子は、いずれも偶然にも見つかったものだった。本庶は自らの体験から、《生命科学の研究から医薬品という果実を得ることは、平たく言えばギャンブル的です。したがって、多くの種をまくこと、すなわち基礎研究を重視しなければなりません》と著書のなかで主張している(本庶佑『PD-1抗体でがんは治る──新薬ニボルマブの誕生』岩波書店)。
本庶はまた、同じ著書において、国立大学の法人化以降、運営費交付金の削減などにより大学が疲弊していること、なかでもそのしわ寄せは若手研究者に行っているため、《このままでは、日本の将来は非常に暗い》と警鐘を鳴らす。
《私が見つけたPD-1の場合、1992年に分子を発表し、2002年にその抗がん作用を見つけています。これはちょうど国立大学法人化前のことです。つまり、いまわれわれが見ている成果は、法人化前の比較的よい環境で生み出されたものです。これからの10年は、果たしてどのようになるのか、注意深く見る必要があります》(『PD-1抗体でがんは治る』)
本庶の記すような状況は、日本人ノーベル賞受賞者が出るたびに指摘され、議論となっている。はたして今回の本庶の授賞により、日本の基礎研究を取り巻く環境は少しでも改善されるのだろうか。
(近藤正高)