Amazon Prime Videoで毎話24:00頃から配信予定。
残酷な展開の説得力
5話終了後のTwitter感想は、阿鼻叫喚だった。
今回は骨子は原作に沿っているものの、ほぼオリジナルの展開。
「百鬼丸がどろろと出会う前にあった過去編」として数ページ描かれていたパートで、百鬼丸はここで少女ミオと戦災孤児たちに遭遇。自分の身体に絶望していた彼が、ミオに恋をし、強く生きる子たちと過ごしたことで、心が戻ってくる重要な部分だ。
アニメだと百鬼丸の境遇が異なるため、彼の反応も大きく異なる。
一番大きいのは聴覚。治ったばかりで、流れ込んでくる情報が整理しきれずパニックを引き起こしてしまい、今の所まともに音を聞くことが出来ない。
そんな百鬼丸は、どろろの声にすら混乱してしまうのに、ミオの歌だけは聞ける。彼は赤子のように、歌をせびる。
おそらく、リズムやメロディーがあって整えられたものは受け取りやすく、それ以外はノイズになるんだろう。百鬼丸が自分の感覚で理解できた、初めての人間の「文化」であり、それによって「感情」が芽生えた。
戦災孤児の描写はとても丁寧。
原作ではいなかったどろろの存在が大きい。子供たちの様子を見て「かわいそう」と言ってはいけないのがわかっている。
だからすぐに客人としての扱いを受けず、みんなと同じ用に仕事をして、溶け込もうと努力する。そんなどろろを戦災孤児たちは、笑顔で歓迎。とても楽しそうな笑い声が響いている。
子供の肢体欠損について一切触れていないあたりに、スタッフのフラットであろうという感覚が見える。
ミオが百鬼丸に初めてであった時、彼の身体について触れなかったのも子供たちの姿を見てきたからなのだろう。
「あたしはいやらしい女の子よ」
陣に働きに行く、と言い続けていたミオ。何をやっているかは、誰も知らなかった。
しかしどろろが彼女の後をつけて見に行くと、複数人の男たちに押し倒され、犯されているミオの姿があった。
行為中、いつもの曲を歌いながら、死んだ目で終わるのを待っているミオ。
原作では「あたしはいやらしい女の子よ」と百鬼丸に言ったミオが、兵隊たちに皆の食べ物を請いもらうため、笑われ、ゴミを投げつけられる、抽象的なシーンになっている。
ファンも、「いやらしい女の子」の話で、うすうす売春が頭によぎっていた人が多かったようで、「あーやっぱり!」というコメントだらけだった(ここを少年誌向けにぼかしつつも不穏にさせているのが、手塚治虫のすごいところ)。
そもそも戦国時代、人が簡単に殺される時期に、誰だかわからない子供がお手伝いにいって食べ物やらなんやらもらえるわけがないのだ。
最初に彼女の事実を知ったのが、一生懸命に生きているみんなを見て、自分も頑張ろうとしていたどろろだった、というのは酷な話。
序盤、耳が敏感すぎて朝早くさまよっていた百鬼丸が、歌に引かれて川に行くシーンがある。
そこでは、早朝にもかかわらずミオが川の中に入って歌っていた。
裾をかなりまくりあげて、川底に膝をついて何かを洗っている。
最初は気にならないこのシーンも、事実を知ってしまうと、彼女が身体を売った帰りなのに気付かされてしまう。
興味深いのは(視聴者層がかぶっているからなのか)「バナナフィッシュ」のアッシュの姿をミオに重ねた感想がいくつか見られたことだ。
生きるために売春するしかない、という切羽詰まった状況。その時には心を殺して耐えるしか無い。売春がテーマのパートとして比較できる部分は多い。
本当に失った右脚
百鬼丸は四肢で唯一、右脚だけ回復していた。
ところが今回鬼神との戦いで、右脚を喰われてしまう。
「どろろ」といえば「百鬼丸が身体を取り戻す」物語。なのに取り戻した身体があっさり失われる、というのは今までなかった発想。
神経が戻って痛みがわかるようになっているし、今回声が戻ったもんだから、脚を食いちぎられた時の痛々しさが半端じゃない。初めて出た声が、痛みの絶叫になってしまった。
身体が戻っても、毎回どこか苦しみを背負い、全然幸せになれない百鬼丸。
今回の件で、身体が戻ることが、むしろ戦闘時にはマイナスに作用するんじゃないか、というどろろの説が信憑性を帯びてきた。
アニメ作品として「百鬼丸も普通の人間同様身体を失うことがある」リアリティラインで進めるのが判明したのは大きい。
今後も、身体が戻ろうとも、また失う可能性が十分に出てきた。
こうなってくると「身体ってなんだ?」という問いが浮かんでくる。
1つ考えられるのは、四肢や感覚が戻ることで、周囲との接触ができ、痛みを理解することができるようになる、という部分。これは百鬼丸を育てた寿海の考え方だ。
もしかしたら百鬼丸の身体は、コミュニケーションや相互理解をし、心を育む過程として、治ったり失ったりしているのかもしれない。
少なくとも、マイナスではないはずだ。
(たまごまご)