
ここまでの文章で説明しなければならない単語がいくつかある。まず、IEEEマイルストーンについて。これは前出のIEEEの活動分野において達成された歴史的に重要な技術成果のなかで、社会や産業にインパクトを与えた業績を選定し、表彰するものだ(大野栄一「IEEEマイルストーン――電気・電子・情報・通信分野における歴史的偉業をたたえる表彰制度」、『東芝レビュー』Vol.64 No.2)。選考では、その達成から25年以上を経過した発明や成果が対象となる。1983年の創設以来、古くは18世紀に雷が電気であることを証明したベンジャミン・フランクリンの業績から、19世紀のベルによる電話の発明やエジソンの研究所、第二次世界大戦後における世界初の大型汎用電子計算機ENIACやトランジスタの開発など、そうそうたる業績が表彰されてきた。認定にあたっては業績を書きこんだ銘板が関与した機関や企業などに贈られ、ゆかりの場所に飾られることになる。
日本からも、大正末~昭和初期に東北帝国大学(現・東北大学)で開発された「指向性短波アンテナ」(八木・宇田アンテナ)が1995年に認定を受けたのを手始めに、受賞したものは現在までに20を超える。そのなかには富士山レーダーや東海道新幹線、黒四ダム、VHSなど、高度成長期前後の日本の技術・産業を象徴するものも少なくない。この記事を執筆中の11月12日にも、KDDIが国際電信電話時代の1964年に運用を開始した「太平洋横断電話ケーブル」の受賞が発表された。
新幹線やVHSなどとくらべると、20インチ光電子増倍管は一般的にはなじみが薄い。一体何に使われるものなのか、よっぽど科学や技術に興味のある人でないとわからないはずだ。しかしこれは、2002年にノーベル物理学賞が授与された小柴昌俊・東京大学特別栄誉教授の業績に欠かせない技術だった。
小柴氏は、1987年に大マゼラン星雲の超新星爆破で放出されたニュートリノという素粒子を世界で初めて観測した。ノーベル賞はこの業績をはじめ宇宙ニュートリノの検出における先駆的貢献に与えられたものだ。その一連の観測が行なわれたのが、岐阜県・神岡鉱山の地下に建設された素粒子観測施設「カミオカンデ」である。
ニュートリノは、水と反応したときまれに「チェレンコフ光」というごく微弱な光を発する。光電子増倍管はそれをとらえるための、いわば光センサーだ。観測実験では巨大な水のタンクが用意され、その壁面に直径20インチ(約50センチ)もの大口径の光電子増倍管が1,050本取りつけられた。同時期(1970年代末~80年代初め)にはアメリカでも同様の観測施設が計画されており、規模ではとてもかなわないので、小柴氏は光電子増倍管の精度を高めることで太刀打ちしようとしたのだ。その依頼を受けたのが、すでにその分野で実績のあった浜松ホトニクス(当時の社名は浜松テレビ)だった。同社は小柴氏の期待にこたえて製品を完成させ、光電子増倍管はその役割を見事に果たしたのである。
今回の除幕式には小柴氏も出席の予定であったが、高齢のため欠席、代わりに「カミオカンデのために、浜松ホトニクス社と協同で特別に開発した世界最大の直径50cm光電子増倍管の完成を、1983年の学術論文『Nuclear Instruments and Methods』で発表しました。この開発が成功したので、太陽ニュートリノの天体物理学と超新星ニュートリノの観測、ニュートリノ振動の発見が達成されました」とのコメントを寄せた。淡々としたなかにも、自身の業績における同社の貢献への感謝の念が伝わってくる。
除幕式の行なわれた浜松ホトニクスの豊岡製作所は、JR浜松駅から遠州鉄道とタクシーを乗り継いで40分ほどのところに所在する。浜松市から車で天竜川に架かる浜北大橋を渡って磐田市内に入りしばらく行くと、工場の立ち並ぶ製作所が見えてきた。銘板碑はその正門を入ったすぐのところに、幕をかけられて設置されていた。
午前11時すぎに始まった除幕式ではまず、今回の式典を主催するIEEE名古屋支部の間瀬健二支部長(名古屋大学大学院教授)が挨拶に立った。このときまず引き合いに出されたのは、前月にノーベル物理学賞に選ばれた青色発光ダイオード(LED)だ。今回のノーベル賞では、豊田合成や日亜化学という会社の製品化技術により、社会に普及し省エネルギーにインパクトを与えたことであったことが受賞理由の一つとなったという。間瀬支部長は、青色LEDと小柴氏のノーベル賞との共通点として、受賞背後にある技術者・実務者の多大なる貢献をあげた。そのうえで小柴氏のチャレンジに果敢に呼応し、成果をあげた浜松ホトニクスに深い尊敬の念を表すとともに、IEEEマイルストーンが、研究者よりもむしろ、技術者・実務者の成果に賞賛を捧げるものであることを強調した。
続いて、IEEE本部挨拶としてJ.ロベルト・デマルカ会長が「チャレンジングで困難な作業にもかかわらず、晝馬(輝夫)社長(当時)の“やってみよう”という決断により、何世紀にもわたる技術的進歩をもたらすものとなった。この技術史上画期的な20インチ光電子増倍管の開発の地である豊岡製作所で認定することができ光栄です」と述べた。
その後、いよいよ銘板碑の除幕が行なわれる。浜松ホトニクスの晝馬明社長と前出のデマルカ会長を中心に、同社役員とIEEE側の出席者によって幕の紐が引かれると、碑が姿を現した。
それを背にしながら晝馬社長は受賞の辞として、これまでに日本からIEEEマイルストーンに選ばれた多くが実用的なものだったのに対し、20インチ光電子増倍管はけっして実用的とはいえない技術だとしつつ、それをやったことによって日本において素粒子研究の研究が非常に進んだ、それは非常に意義のあることだったと思うと振り返った。そして「『やれないと言わないでやってみよう』という心を、この碑の前を通るたびに思い出して、今後ともますますいい製品をつくり、努力していきたい」と今後の決意を表明した。

銘板碑の岩盤には、カミオカンデ(その後、より大型化したニューカミオカンデが建設され、現在も観測が行なわれている)のある神岡鉱山の飛騨片麻岩が使われている。碑の方角も神岡鉱山に向けて設置された。銘板のレプリカはスーパーカミオカンデの入口のほか、同社や浜松市の各所にも配布されるという。

カミオカンデの建設については、NHKのテレビ番組「プロジェクトX」でもとりあげられ、書籍化もされている(以下、敬称略)。20インチ光電子増倍管の開発については同番組・同書のほか、『別冊日経サイエンス ニュートリノで輝く宇宙』や小柴昌俊『ニュートリノ天体物理学入門』といった本でもくわしくとりあげられている。そこでは完成までの技術的苦労もさることながら、量産体制に入ってからも予算がなかなか下りず、製品の引き取りも遅れた結果、工場に保管場所がなくなり、食堂にまで侵食したとのエピソードも明かされている。
光電子増倍管を高さ16メートルもあるタンクに取りつけるには専門のとび職にも不可能で、仮に可能でもその人たちを雇う費用はなかった。そこですべての作業を大学院の学生たちの手で行なうことにする。ここでとられたのは、タンクの水を少しずつ増やしていき、学生たちはゴムボートに乗りながら下から順に取りつけていくという方法だった。
こうして多数の光電子増倍管の取りつけられたカミオカンデ、あるいはのちのスーパーカミオカンデのタンク内部の写真を見ると、何やら神々しい雰囲気すら感じる。その印象は中尊寺金色堂だとかヨーロッパの大聖堂など宗教建築に近い。そういえば、浜松ホトニクスの今回の受賞にあたっての発表記事には、こんな一文があった。
《欧米においてサイエンスとは「芸術、宗教または哲学の如く絶対真理を求める人の心の動き」だとされています。人類には未だ知らないこと、できないことが無限といってもよいほどあり、サイエンスとは、この領域を追求することで、絶対真理に近づくことだと思います》
絶対真理を求めるという共通点ゆえ、素粒子観測施設と宗教建築が似た雰囲気になるのは当然なのかもしれない。驚いたことに、前出の『別冊日経サイエンス』には、カミオカンデ開発当時の社長である晝馬輝夫が、長らく福音書を毎朝読んでいるという話が載っていた。同記事によれば、じつは晝馬は、小柴からの依頼を当初は断ろうとしていたという。それを結局引き受けたのも、小柴の研究室に宗教画がかかっているのを見て、相手が自分と同じように「本当のことは何だ」と日々追い求めているのだと共感を抱いたからだった。実際には、小柴はその絵をたまたま外国で見つけ、面白いと思い買ってきただけだというのだが、晝馬は《しかし、今から考えてみると、割合、最も適切な判断をしたなと思っている。実際、そうしなければ超新星ニュートリノは見つからなかった》と振り返っている。
さて、浜松にはもう一つ、IEEEマイルストーンの銘板が飾られているところがある。それは静岡大学の高柳記念未来技術創造館だ。その名に冠された「高柳」とは高柳健次郎という、同大学の前身である浜松高等工業学校において1926年、世界で初めて電子式テレビで画像を映し出すのに成功した技術者である。IEEEはこの業績に対し2009年にマイルストーン認定を行なった。
じつは浜松ホトニクスの晝馬ら3人の創業者は、浜松工業専門学校で高柳に学んでいる。同社の「未知未踏」に挑むスピリッツは高柳から継承されたものだと、豊岡製作所の玄関近くの応接スペースにも掲げられていた。同社の製品は国内のみならず国外での評価も高く、スイス・ジュネーブ近郊の欧州合同原子核研究機構(CERN)の大型ハドロン衝突型加速器LHCでも使われている。昨年このLHCによって、長らく世界中の学者たちの追い求めてきた「ヒッグス粒子」の存在が確認され、ノーベル物理学賞の対象となったことは記憶に新しい。
そういえばこの日、私が除幕式や静岡大学の行き帰りに乗った遠州鉄道の電車やバス車内の電光ニュースには、「祝ノーベル賞 天野浩名古屋大学教授」という文字が躍っていた。そう、天野教授もまた浜松出身なのである。浜松というと自動車会社のスズキや、ヤマハなどの楽器メーカーが思い出されるが、それ以外にも基礎科学への貢献も大きいということが、今回現地を訪ねて実感できた。
(近藤正高)