
三宅隆太さんは映画監督で脚本家。

大手書店ではこれ、「映画本」コーナーに、いわゆるシナリオ術(作劇術)の本といっしょに置かれるしかないし、それは間違ってはいない。
でもこの本の射程は、映画やアニメの脚本をどう書くか、といった問題を超えている。
さらに広く、ゲームや漫画や小説をどう作ろうか、といった問題にも達しているが、それすら超えてしまっている。
本書の射程はもはや、どう生きるか、という大問題に達してしまっている。
僕はこの本を「幸福論」として読んだ。
創作物において、本気の自慰こそが性交である
シナリオコンクール応募作を審査したり、大学で学生の脚本を指導したり、企画進行中の脚本(他のプロ脚本家の作品)の〈体調不良〉の相談を受けたり(この最後のが、日本に数人しかいないともいわれる「スクリプトドクター」の仕事)した経験から、著者はこう言い切る──
〈書き手が「本当に本気で」自分のストレスを発散させることができれば、その作品は他人の心にも必ず響きますし、他人のストレスをも発散させることができます〉
作者の自己満足止まりの創作物をよく自慰などと呼ぶが、〈「本当に本気で」〉最高の自慰行為をすれば、観客と性交して、お互いが満足を得ることができる、ということだ。
逆に言うと、〈「本当に本気で」自分のストレスを発散させること〉は、創作家にとっても、その他の僕ら一般人にとっても、けっして容易ではないということでもある。
未清算の過去に直面すること
本書で映画「ブルーサンダー」やアニメ「おそ松くん」第1期の第83-84話を分析しつつ、著者は、ドラマのクライマックス直前の、登場人物が〈殻を破る瞬間〉に注目する。

〈殻〉とは、その人物の〈未清算の過去〉がつくりあげたものだ。その〈殻〉が〈不要な世界観〉〈心のブレーキ〉となって、当人の行動を制限してしまう。
過去においてその人物は、なんらかの方法で危機を回避し、生きてくることができたのだろう。あるいは、そうせざるを得なかったのかもしれない。
ところが、その方法が当人の心のなかで自動化し、〈自動思考〉〈思考のクセ〉となってしまうと、それがその後の人生のさまざまな場面でも、彼・彼女の行動を束縛し、パターン化していく。
過去に発生した問題の直視を回避しつづけるかぎり、〈殻〉は破れない。
脚本において、登場人物がなにか新しい生きかたをつかむブレイクスルーの瞬間が、新展開やクライマックスを用意するトリガーとなる。
生きかたを変えるとき、登場人物は自身の〈未清算の過去〉を(再)認識し、新しい意味で捉えなおし、それをいわば乗り越えるのだ。
このあたりの問題は、向後善之『人間関係のレッスン』でもわかりやすく取り上げられている。

参照されている臨床のメソッドは、『人間関係のレッスン』と『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』とでは異なっているけれど、根っこのところの人間観には共通するものがある。
脚本家が逃げてると、登場人物も問題に直面できない
ここからがおもしろい。
脚本がなんとなくボヤけた出来になってしまうとき、また(進行中のプロの企画のばあいに)暗礁に乗り上げたりするときには、脚本家が脚本家自身の人生の「未清算の過去」をきちんと認識していないケースがある、というのだ。
大学教員・三宅隆太の教室にいるシナリオ勉強中の大学生であっても、またスクリプトドクター・三宅隆太のクライアントとなったプロの脚本家であっても、同じ現象が起こる、というのがまた興味深い。プロだって生身の人間なんだよね。
「未清算の過去」をほっとくと、人生のリアルな諸局面においてさまざまな「思いこみ」「決めつけ」をやってしまうだけではない。
書いている作品のなかでも問題を深めることを回避してしまう。予定調和的な小さい軌道しか描けなくなったり、不要な設定・場面にこだわって筋の流れを悪くしてしまったりするという。
それをプロットに組みこみませんか?
本書で挙がっている例では、アマチュアの学生でも、プロの脚本家でも、著者との面談中に、自身の心が引っかかっている問題の構造を発見する(三宅さんは心理カウンセラーでもある)。
自分でも気づかない家族への反撥とか、その感情を周囲のスタッフに投影してしまっているとか。
著者は、その構図をそのままプロットに組みこむのはどうか? と相手に提案することすらある。
そうすることによって、脚本のその部分が、より実感のこもった、説得力あるものに変貌することだってあるのだ。
脚本家が苦悩を正視し、それを引きずってる自分を認める。彼・彼女がその新しい自己認識を作品に投入すると、登場人物によって、まったくべつの架空の状況においてその問題が生き直される。脚本家も登場人物も、そこまで自分を閉じこめてきた〈殻〉を破る──。
脚本を書くことにはアートセラピーとしての側面があると著者は言う。なんだか箱庭療法のようだ。
「フューリーロード」がバズるわけ
脚本を書く方法はまた、既存の映画をいかに見るかという問題を提起する。
この面でも本書には、いろいろ示唆的なことが書いてあった。
〈ジャンル映画は観客との共犯関係が組みやすく、感情の振り幅も大きいのです。
そのことが、いわゆる「人間ドラマ」のようなノンジャンル映画よりも、却って「ひとの微細な感情」を描きやすくするものなのかもしれない〉
2015年夏、近未来アクション映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(MMFR)があれだけ「感情」の細かい襞の部分で受容された条件のひとつは、この点にもあるのではないかと思ったりした。
〈「関係性」というものは「〔…〕見えない人には見えないもの」です。〔…〕見えなかったからといって、「それは関係ない」と一刀両断していたら、新たな気づきの可能性を失いかねません。
これもまた、二村ヒトシさんのMMFR解釈や枡野浩一さんのMMFR評にたいして〈「それは関係ない」と一刀両断〉する型の感情的な反発が少なからずあったことを思い出した。
「思ってたのとちがった」ときこそ「おもしろい」!
著者は、まだレンタルビデオ屋もなく家庭用録画再生機も普及していなかった小学校時代に、TVの洋画劇場を観まくった。
〈すべての映画が面白かったわけではなく、「なんか、思ってたのとちがった……」ということも多々ありましたが、そういうときは基本的に「悪いのは自分のほう」だと考えていました〉
〈そのうちに、そもそも「なんか、思ってたのとちがった」という発想自体がいけないんじゃないか、と考えるようになりました〉
〈他人様が他人様の都合で作ったものを観る前に、勝手に「思ってた(こちらの都合の理想を抱いていた)」時点でぼくのほうに落ち度がある〉
このように考えを深めているうちに、とうとう
〈どんな映画を観ていても、必ずなんらかの魅力が発見できるようになったのです〉
これはまさに、コンテンツをめぐる幸福論だ。
人と接するときの器が、コンテンツと接するときの器
著者はべつの章で、違う文脈で、以下のようなことも書いている。
〈まったく別の人生を送ってきた、異なる世界観を持って生きてきた「赤の他人」に対して、「期待していたようなひとじゃなかった! がっかりだわ!」というのは、随分とおこがましい考えなのではないか〉
〈大切なのは「ないものねだり」ではなく、「あるものさがし」です〉
これを「幸福論」と呼ばずして、なにを幸福論と呼ぼう?(反語的疑問文)
コンテンツに接するのも、人に接するのも、そして自分自身に接するのも、〈あるものさがし〉のほうがいいに決まってる。人と接するときの器が、コンテンツと接するときの器なのだ。
本書はアランの『幸福論』を側面から援護射撃する、ひとつの幸福論なのだ。

著者の文章が明晰なので気にせず一気読みできるけど、じつは本書は、わずか300頁の本文に盛りこんだ情報量がものすごく多く、パツンパツンな感じだ。
だからここでは、本書の基盤となる著者の「人間観」「コンテンツ観」の一部にだけ焦点を当てた。
本書の問題提起の出発点となる〈『窓辺』系〉をはじめ、〈逆バコ起こし〉〈ダブルタップ(二度撃ち)〉〈からめとり話法〉などの重要かつ魅力的なキーワードについては、ここでは説明しなかった。
本書にはそういう技術的な話も盛り込んであるので、脚本を書きたい人、ストーリーなるものに興味がある人は、じっさいに書籍に当たってみて損はないと思う。
(この本を教えてくれた京極光奈乃さんに感謝します。ありがとう!)
(千野帽子)