小林一三は、単なる企業家・経済人という立場にとどまらず、政界にも進出したほか、文化や人々のライフスタイルにおよぼした影響も大きい。この記事では、ドラマのガイドとして、その多岐におよぶ業績をちょっと紹介してみたい。
“問題社員”だった銀行員時代
小林一三は、1873(明治6)年、山梨県に生まれた。山梨からは、現在のJR中央線の建設や京急電鉄、江ノ電などの設立に携わった雨宮敬次郎、東武鉄道の創業者である根津嘉一郎など、鉄道で財をなした人物が何人も輩出されている。ただし、もともと相場師として名をあげた雨宮や根津に対して、一三は慶應義塾在学中より小説や芝居に熱中し、金儲けにはとんと興味がなく、むしろ作家や新聞記者に憧れていた。学校を出て三井銀行(現・三井住友銀行)に入ったものの、1月から出社しなければならなかったのに、3カ月間ブラブラしていて欠勤するという“問題社員”だった。

先にとりあげた高橋是清もそうだったが、青年時代の小林一三もまた女性に関する話には事欠かなかった。入社した年の秋には大阪支社へ転勤するが、学生時代に覚えた遊里での遊びにふけり、恋愛もした。もっとも一三はけっしてモテる男ではなかったようだ。そんな彼に《魅力と、将来の可能性とを併せて直感した最初の人》こそ、愛人からのちに妻となるコウという女性である(阪田寛夫『わが小林一三』)。
大阪で芸妓見習いをしていたコウと知り合い恋仲となった一三だが、いったんその関係を清算しようとしている。1897年に三井銀行の名古屋支店に“左遷”されたのも、半分は一三のほうから彼女と別れるため望んだものだったという。名古屋からふたたび大阪に戻ったあとは、べつの女性と見合い結婚までしている。だが、コウとの関係は断ち切れなかった。自宅へ一三の留守中にコウが来たとお手伝いから聞いた彼は、彼女を追いかける。有馬温泉で3日間すごしたのち帰宅すると、新妻は実家に帰ってしまっていた。
妻に逃げられたことで、もともと悪かった彼の社内での評判はがた落ちとなる。その後東京に転勤したあとも冷や飯を食わされ、やがて元上司の岩下清周(きよちか。ドラマでは奥田瑛二が演じる)から証券会社づくりの誘いを受け、退社を決めた。この間、一三はコウと再婚している。
コウは幼少期に、自宅の前を通りかかった虚無僧のような男から「将来この子を妻にした男は必ず出世する」と言われたことがあったという。
秋葉原に受け継がれる阪急商法
一三が三井銀行を退社してから阪急電鉄の前身・箕面有馬電気軌道の設立に参加するまでの話はきっとドラマでもくわしく描かれることだろうから、ここでは省略する。鉄道業界に入った一三が手がけた新事業が、その後の私鉄経営のモデルとなったことはよく知られるところだ。おそらく彼がいなかったら、日本の大都市の姿はかなり変わっていたに違いない。
自社の鉄道の旅客を増やすため、沿線に住宅を建てるというアイデアは、阪急より早くに大阪~神戸間に路線を敷いていた阪神電鉄に先んじられた。とはいえ、阪神の建てたのが「貸家」だったのに対して、阪急は「分譲住宅」をサラリーマンにも購入しやすいよう月賦方式で売り出したのが画期的だった。
宝塚を温泉地として開発した一三は、その余興として少女歌劇を創始した(1913年。初演は翌年)。元文学青年らしい彼ならではのアイデアだ。宝塚歌劇は昭和に入って東京に進出し、1934年には東京宝塚劇場がオープンする。さらに帝国劇場や日本劇場など日本の演劇の中心となる劇場が次々と阪急傘下に収められた。その事業は映画製作にもおよび、1937年設立のその社名は「東京宝塚」を縮めて「東宝」となる。
ほかにも、駅に隣接したターミナルデパートを設けたのも阪急が最初である。それまでの百貨店の多くは駅から離れており、交通の便があまりよくなかったことに目をつけたのだ。当初は梅田の直営ビルのフロアをべつの百貨店に貸していたが、やがて直営の阪急百貨店を開店した(1929年)。
こうした一三のアイデアに端を発する私鉄経営モデルは、21世紀にいたっても息づいている。第三セクターの首都圏新都市鉄道が運営するつくばエクスプレス(TX。秋葉原~つくば間)はその顕著な例だ。2005年の開業にともない、TX沿線では宅地開発が進められる一方で、東京側のターミナルである秋葉原駅には阪急系列の商業ビル・ホテルがオープンしている。
ついでにいえば、同じく2005年に秋葉原の専用劇場を拠点に結成されたAKB48は、阪急沿線における宝塚歌劇とも位置づけられるだろうか。実際に、元宝塚総支配人の森下信雄は、「未完成」をファン・コミュニティが演者・運営側とともにバージョンアップしていくプロセスに、宝塚とAKBの共通性を見出している(『元・宝塚総支配人が語る「タカラヅカ」の経営戦略』)。

「ソースライス」と消費者本位
阪急百貨店の食堂では開店当初より、20銭のカレーライスとともに5銭の「ソースライス」なるものが評判を呼んだ。もっともソースライスとは、単にライスに卓上のウスターソースをかけただけのものだったのだが。昭和初期の大不況下では、カネがなくてライスしか頼まない客も増え、これに対し多くの百貨店が「ライスだけの注文お断り」の貼紙を出すなか、阪急百貨店では一三が「ライスだけのお客様を歓迎します」と貼り出すよう指示したとの話が伝えられる。
阪田寛夫による評伝『わが小林一三』では、「真偽は判らないが」としつつ、阪田が当時を知る人たちから聞いた話として、ライスだけ注文する客のために一三自ら福神漬を持って現れたとのエピソードが紹介されている。
ソースライスの話は、一貫して消費者目線で考え続けた一三をしのばせる“伝説”といえる。じつは一三以前には、そんな企業家はほとんどいなかった。というのも、当時の日本経済の柱であった紡績・鉱山・造船・金属などの企業は、製品を問屋やメーカーに売りさばけばそれで終わりであり、消費者と接することはなかったからだ。《小売は小商人のやることであり、一般には企業経営者の意識のなかには、消費市場への対応に低い評価しか与えなかったのである》(宮本又郎『企業家たちの挑戦』)。
それでも、大正初めの第一次世界大戦前後ともなると、都市への人口集中が進み、日本でもようやく大衆消費市場が芽生えようとしていた。一三はその動きを鋭敏にキャッチして、さまざまな独自のサービスを展開した先駆者のひとりであった。
球界や電力業界にも足跡を残す
小林一三は日本の野球史にも足跡を残している。今年100年を迎えた高校野球の最初の全国大会(当初の名称は全国中等学校野球優勝大会)は阪急の所有する大阪府の豊中運動場で開催された。大正末の1924年にはプロ野球チームである宝塚運動協会を設立している。これは長続きしなかったが、一三はやがて関西の電鉄会社によるプロ野球リーグを構想、1936年1月には阪急軍、のちの阪急ブレーブスが結成された。ライバル会社・阪神電鉄が大阪野球倶楽部(現・阪神タイガース)を結成した翌月のことである。
ただし中等野球は第2回以降、阪神所有の鳴尾球場、さらに1924年の第10回大会からは阪神甲子園球場で行われるようになる。
阪急は60~70年代に何度も日本シリーズに進出し実力では申し分なかったが、人気には恵まれず、1988年にはオリックスグループに売却されている。小林一三は生前に「少女歌劇と球団は絶対に手放すな」と言っていたが、それは彼の没後31年にして反故にされたことになる。いまや阪急は阪神と経営統合し、かつてライバル関係にあった阪神タイガースをグループ内に擁している。そのことを知ったら一三はどう言うだろうか。ともあれ、彼は球界への貢献から没後の1968年には野球殿堂入りもしている。

一三の自社グループ以外での業績として特筆すべきは、経営不振に陥ってた東京電燈の再建だろう。1927年に古巣・三井銀行の池田成彬に請われて同社に乗り込んだ一三は、各営業所を自ら回り接客などについて社員を指導したほか、余剰電力の有効利用策として現在の昭和電工の設立、また人員整理を行なった。1931年には東京電燈は東京発電と合併、これが現在の東京電力の前身となる。
こうした経緯は「経世済民の男」シリーズの第3弾「鬼と呼ばれた男~松永安左ェ門」(9月19日放送)の内容ともかかわってくる。今回の「小林一三」のなかでは描かれないかもしれないが、2011年の福島第一原子力発電所の事故以来、電力事業の経営形態について議論されている昨今だけに覚えておきたい事実である。
(近藤正高)
