中田英寿といえば言わずと知れた日本サッカー界のレジェンド。
日本が初めてワールドカップに出場したフランス大会以降、日韓大会、ドイツ大会まで中心選手として活躍したのはご承知の通り。

その中田英寿がベルマーレ平塚(現:湘南ベルマーレ)からセリエA・ペルージャに弱冠21歳で移籍し、日本人選手の評価を一変させたのがデビュー戦であった。

中田英寿の移籍 ジャパンマネー目当てだった?


中田が移籍したクラブは日本では馴染みのないペルージャ。当時のペルージャはセリエBから昇格したばかりで、財政は決して豊かとはいえないクラブだった。
中田の移籍は日本では華々しく報道されたが、イタリアでは「金持ちジャポネーゼ(日本人)がマネーを持ってセリエAに来た」程度の認識。1年で帰るだろうというのが大方の予想であった。

開幕戦の相手 王者ユベントス


中田のセリエAデビュー戦の相手は前年の覇者ユベントス。
ユベントスは当時もビッククラブで、メンバーもジダンを筆頭にデルピエーロ、インザーギなどが揃った豪華メンバー。地元ファンの間でも悲観的な声が多く、王者ユベントス相手に勝てるわけがないというのが圧倒的だった。

衝撃を与えた中田英寿の2ゴール


1998年9月13日、ペルージャのホームで開かれた開幕戦に中田はスタメンで出場。前半はユベントスが圧倒的な強さで試合を運び前半だけで3点を挙げ、王者の強さを見せつける。
しかし後半に入ると、ペルージャも反撃に。反撃の狼煙を上げたのは中田。後半7分に味方からパスを受けると右足で振りぬきミドルシュート! ゴール右隅に決め、セリエAデビュー戦で初ゴールを決めて3-1とする。
更に後半16分、中田はゴールキーパーが弾いたボールをボレーシュートして2点目を決め、3-2と王者ユベントスを追い詰める。

結局、試合は4-3でユベントスが勝利したものの、ゲームの主役は完全に中田だった。
翌日のイタリア紙でも中田の活躍は大きく取り上げられ、「ジャポネーゼ=サッカー下手」というのを覆したのだ。
中田はセリアAに移籍したこの年、10ゴールを挙げペルージャの中心選手としての地位を早くも確立した。

ASローマで見せた歴史的ゴール


ペルージャに移籍した翌年、名将カペッロの強い希望でASローマにシーズン途中で移籍。ローマではトッティと激しいポジション争いを繰り広げながら、得意のトップ下ではなくボランチでも活躍。ローマに移籍した翌シーズンにローマはスクデット争いを繰り広げたが、ここでも中田は再び躍動し、優勝を決定づける働きを見せた。

シーズン終盤、相手はデビュー戦の相手でもあったユベントス。試合はローマがユベントスに2点リードを許す苦しい展開であり、カペッロは状況を打破すべく、後半20分にトッティに代えて中田をピッチへ送り込んだ。
ピッチに立った中田はゲームを支配し、後半34分にゴールから25m離れた位置で強烈なミドルシュートを放ちゴール。そしてローマの1点ビハインドで迎えた後半のロスタイム、中田が再び右足からミドルシュートを放ったことが起点となって同点に。

このゴールで引き分けに持ち込んだローマはその後、セリエA優勝をし「ローマ最後の優勝はナカタが明るく照らしだした」と絶賛されたのだった。

中田英寿、イタリアでは今でも高評価


中田はローマから当時日本人選手最高の移籍金33億円でパルマへ移籍。その後はボローニャ、フィオレンティーナ、プレミアリーグのボルトンへと渡った。
日本代表で迎えたドイツワールドカップで予選リーグ惨敗後、わずか29歳で現役引退を発表。
ブラジルに敗れた試合終了後、ピッチに仰向けに倒れんだ姿がサッカー選手中田英寿としての最後の姿になった。

中田に対して、イタリアでは今でも「ナカータ」の発音ともに今でも懐かしむ声が聞こえる。
特にローマファンは今でも優勝を決定づけたユベントス戦での活躍が印象に残っているそうで、現役引退後の今もファンの心に残り続けている。

今でこそ日本人選手が欧州へ移籍するのは当たり前だが、これも中田の活躍があったからこそ。欧州での日本人選手への低評価を覆したのが中田であった。現在はサッカー界から距離を置いてる中田だが、日本でもイタリアでもサッカー界に戻ってくることを願っているファンも多い。
いずれは指導者やクラブのオーナーなどとしてサッカー界に戻り、レジェンドとして現役の選手を鼓舞する姿を見せて欲しい。
(篁五郎)
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