
「世界を設計し直す」という野望を抱く万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ(本人)。手始めにイタリア中の人々を昏睡状態にして、夢の中で人格を変えてしまおうと企む。
ルパンと一度は結婚式を挙げたレベッカも、人格を消されそうになっていた。(盗みのためとはいえ)かつて愛しあった女を見捨ててしまったらルパンの名が廃る。ルパンはレベッカの夢の中に入り込み、ダ・ヴィンチの手からレベッカの人格を盗もうとする。
夢の中で、囚われているレベッカのもとに行こうとするルパン。ダ・ヴィンチが絵を描けば、世界はその通りに変化するのでルパンも悪戦苦闘。絵画の中をルパンが走る回るシーンは『ルパン三世 ルパンVS複製人間』、時計塔の中をさまようシーンは『ルパン三世 カリオストロの城』を彷彿とさせる。
一方、現実世界では座っているダ・ヴィンチの横でルパンはタバコを喫っているだけ。なんとも不思議な戦いである。
「なぜ君は宝を追い求める?」
「理由なんてないさ。俺がルパン三世だから。
苦労しながらルパンはレベッカの元にたどり着き、レベッカの記憶を蘇らせることに成功する。それだけレベッカにとって、ルパンと過ごした時間の記憶は強烈であり、大切なものだったということなのだろう。
レベッカは覚醒し、イタリア中の人々もまた昏睡状態から目を覚ました。ルパンがイタリア人全員の夢の中に入って大暴れしたということになる。目を覚ました不二子は「あんな悪夢ったらないわ~」と一言。ひどい。
現実世界で、あらためてダ・ヴィンチと対峙するルパン。しかし、クローン人間であるダ・ヴィンチは天才すぎて体に不具合を起こし、吐血してそのまま死亡。昏睡騒動は警察によってルパンの仕業と断定され、かくして事件は一件落着となった。
ルパンとレベッカの別れはクラリスとの別れへのオマージュ?
ここから先は、シリーズ全体のエピローグとなる。しばらく登場しなかった銭形警部とのルパン一味とのカーチェイス。このシーンは、『カリオストロの城』でカーチェイスを描いた友永和秀総監督がレイアウトを行ったとのこと。シリーズに登場したサブキャラクターたちが少しずつ顔を見せるのも最終回らしい。
イタリアから去ろうとするルパンを引き止められないと知ったレベッカは、“ミセス・ルパン”の名前を貰い受けようとする。世界のどこかで“ミセス・ルパン”が泥棒をしたら、それはレベッカのしわざ。離れた場所にいても通じ合う、二人だけのサイン。
このあたりのやりとりは、「ドロボーはまだ出来ないけど、きっと覚えます」とルパンに言った『カリオストロの城』のヒロイン、クラリスとの別れのやりとりを、さらにじっくり描いたようにも見える。
「あなたに見ててほしいの。いい女になっていくあたしを」
「今でも十分いい女さ」
「ううん、もっと。あなたが盗まずにはいられなくなるぐらい」
クラリスも、ここまで言えればよかったね。あえて言わせないのが宮崎駿監督なんだろうけど。
ラストシーン、駅のホームに距離を置いて並んだルパン、次元、五エ門、不二子が、それぞれ消えていく。ルパン一味を「仲間であることが当たり前じゃない関係」とするシリーズ構成・脚本を担当した高橋悠也の言葉どおりだ。このシーンは、浄園祐プロデューサーがアイデアを出し、矢野雄一郎監督が絵コンテにして、『空の境界』などを監督したベテランアニメーターの滝口禎一が原画を描いたものだという。
最後は「さよならイタリア ルパン三世より愛をこめて」と字幕が出ておしまい。もともと今回の『ルパン三世』はイタリアマーケットを意識して作られ、イタリアで先行して放送された作品だが、最後までイタリアのルパンファンに向けてきっちりとサービスした内容だったと言えるだろう。イタリア人全員の夢の中にルパンが出てくるなんて、イタリアの人たちは嬉しかったんじゃないのかなぁ。
ルパン三世というキャラクターの“厄介さ”
全24話を追いかけながら、ずっと考えていたのは、「誰がルパンを本気にさせるか」ということだった。これは『ルパン三世』という作品の構造にもかかわる問題である。
アニメ評論家の藤津亮太は、ルパンというキャラクターは厄介な存在だと指摘している(「藤津亮太のアニメの門V」)。まず、ルパンは「ドラマを担うような複雑な内面を持っていない」。これはモンキー・パンチの原作が、大胆なトリックで読者を驚かせる作品だということに由来している。ルパンが泥棒をするのに理由はいらない。まさに今回登場した「理由なんてないさ。俺がルパン三世だから。
しかし、それではドラマにならないため『ルパン三世』TV第1シリーズは、前半では退屈しのぎに面白いことを追求する男、演出陣が交代した後半ではバイタリティーあふれる義侠心のある男という内面が与えられた。『カリオストロの城』では、枯れた中年男という内面が与えられ、ルパンのキャラクターの変化とともに「完」というエンドクレジットが現れた。一方、『ルパンVS複製人間』では、ルパンの内面は“虚無”であるとされた。
また、かつて宮崎駿と押井守が徹底的に議論したとされる「ルパンには盗むものがない問題」も厄介さに拍車をかける。すでに40年近くシリーズが続いている作品の中で、ルパンは泥棒なのに何を盗もうとすでに新鮮味がないという問題があるのだ。
こうなるとストーリーを駆動させるためには、物語をつくる魅力的なサブキャラクターが必須ということになる。それはライバルでもヒロインでもいい。そこにルパンたちがやってきて、巻き込まれ、関与することによって面白い物語にしていくしかない。
ところがここにも問題がある。ルパンのライバルというキャラクター造形が非常に難しいのだ。なにせルパン、次元、五エ門、不二子の4人は、それぞれの技能が極限まで達した“チート”キャラ。
今回のシリーズには、ヒロインのレベッカ、MI6のエージェント・ニクス、天才科学者の浦賀航、そしてダ・ヴィンチという新キャラクターが登場したが、ライバルという点ではニクスとダ・ヴィンチはやや弱かった。彼らと相対してもルパンが余裕をなくすということはなく、アクション作品としての『ルパン三世』の弱さが露呈してしまっていた。
一方、ヒロインのレベッカの扱いはかなり丁寧だったと言えるだろう。あまり出過ぎると恋愛ものになってしまう恐れがあるため、姿を出したり消したりしながら、ルパンを行動させるさまざまな動機をつくっていた。
新旧のスタッフが参加した作画は安定したまま完走し、おおむねファンに満足感を与えた『ルパン三世』だが、強烈な印象を与えるまでには至らなかったというのが筆者の感想である。『ルパン三世』はキャラクターが物語を超えてしまっている作品であり、かといってキャラクターを超える強烈な物語を持ってくると『ルパン三世』の世界が崩壊してしまう可能性がある。
そういう意味では、今回の『ルパン三世』は、浄園プロデューサーが語っていた「ど真ん中の『ルパン』」をやり遂げた作品だと言うことができるだろう(「浄園祐プロデューサーが最後まで悩んだ「物語の終わらせ方」」)。極端に走らず、キャラクターを立てたまま、シリーズを完走した今回の『ルパン三世』は、言うならば次なる振り切った『ルパン三世』のための地盤、基礎なのかもしれない。
(大山くまお)