先日、『水曜日のダウンタウン』を観ていたら、テレビから懐かしい名前が聞こえてきた。ご存知、90年代の終わりから00年代前半にかけてプロ野球選手として活躍したロベルト・ペタジーニの隣にいつもいたパンチの効いた熟女。
オルガ夫人は元々ペタジーニの学生時代の先輩の母親で、25歳年上の姉さん女房である。隙あらばオルガ状態。あまりのイチャつきぶりが話題となり、ヤクルト時代には選手専用バスにオルガ夫人を同乗させたことで物議を醸したこともあったほどだ。
あれだけのオシドリ夫婦として知られた2人もすでに離婚しているらしいという風の噂に時の流れを感じるが、今でも度々「姉さん女房」と言えばネタとして登場するペタジーニは、本業の野球の方では球史に残る本物のスラッガーだった。
ペタジーニが日本に来た理由
1999年、来日1年目の成績は打率.325、44本塁打、112打点、OPS1.146。入団して即ヤクルトの大黒柱として君臨した男は、ゴールデンルーキー上原浩治の涙の敬遠で話題になった松井秀喜(巨人)との激しいタイトル争いを制し、本塁打王と最高出塁率を獲得した。
当時まだ28歳とバリバリのペタジーニ。なぜこのレベルの選手が20代の内に日本に来たのか疑問だが、その来日の舞台裏を元ヤクルト国際スカウトの中島国章氏が自著の中で明かしている。
97、98年と2年連続マイナーリーグMVPを獲得していたペタジーニは、所属していたシンシナティ・レッズではメジャーとマイナーの当落線上にいた選手。マイナーリーガーの安月給から脱却するために、本人が一定の出場機会を求めているという情報を入手したヤクルトスカウトの中島氏が「日本に来たら100%試合で使う。ヤクルトに入ったら毎試合出場できることを約束する」と口説き落としたという。
中島氏はさらにペタジーニ成功の理由として、元ヤクルト若松監督のグラウンド外では干渉しない放任主義を挙げている。同時にもし、高田繁監督なら活躍は難しかったと軽いジャブをかましながら。
松井の前に立ちはだかったペタジーニ
ペタジーニは3年目の01年にも本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。ヤクルト在籍4年間で、全シーズン3割を越える打率を記録し、通算160本塁打(年平均40本)、429打点という素晴らしい成績を残した。
この間、松井秀喜との本塁打王争いは熾烈で、99年はペタジーニ44本に対して松井42本、翌00年はペタジーニ36本を抑えて42本の松井に軍配、01年は再び39本のペタジーニが36本の松井の前に立ちはだかった。ちなみにこの年、ペタジーニは127打点で打点王も獲得。キャリアハイの121打点を記録した清原和博(巨人)の悲願の初打撃タイトルも阻止してみせた。
今思えば、大砲を並べ猛打を誇っていた長嶋監督時代の巨人打線タイトル独占を食い止めたのがヤクルトの背番号9だったのである。
巨人に移籍したペタジーニ
そして迎えた02年シーズン、松井は50本塁打、107打点で両部門2位のペタジーニを抑え2冠獲得。もはや日本球界にやり残したことはないという雰囲気になり、海外FA権を行使しニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。
皮肉なことに、この松井の移籍により、巨人は代役主砲としてペタジーニを推定年俸7億円の2年契約で獲得(一部では実際の年俸は10億円以上と報じられた)。誰もが「1塁に清原がいるのにどう起用するのか?」と疑問に思った03年シーズン。結局、外野手として起用されたペタジーニは守備面で不安定さを露呈するも、打撃面では相変わらずの勝負強さで規定打席不足ながら打率.323、34本、81打点、OPS1.139と存在感を見せた。しかし、翌04年は1塁手として清原と併用され、その年限りで巨人退団。
その後、アメリカに戻り一度引退するも、08年以降はメキシコや韓国でもプレー。
昨年、新年の特番で引退後の松井秀喜が元レッドソックスの主砲マニー・ラミレスと対談するテレビ番組が放送された。現役時代のライバルチームの4番打者同士で思い出話に花を咲かせる男達の姿。ならば次は、松井が日本時代に凌ぎを削った、もう1人の因縁の相手と再会して「あの頃」を語り合ってほしい。ゴジラ松井にとって、ペタジーニはタイトル争いの最大のライバルであり、自らがニューヨークへ去ったあと、巨人の4番を託した盟友でもあるのだから。
(死亡遊戯)
(参考資料)
「プロ野球 最強の助っ人論」中島国章著/講談社