じつは脚本家の坂元裕二が高橋にこうした長ゼリフを言わせたのは今回が初めてではない。

「おれたちはヘリコプターの影だ」
「モザイクジャパン」は初っ端から複数の裸の男女がからんでいるシーンから始まる。その様子を呆然としながら見ているのは、現在NHKの朝ドラ「べっぴんさん」でヒロインの夫を演じる永山絢斗だ。やがて彼のズボンのファスナーを女性(ハマカワフミエ)が降ろし、「常末さん、仕事中ですよ」と告げる。と同時に照明とビデオカメラが入ってきて、そこがアダルトビデオの撮影現場だということがあきらかにされるのだった。
高橋一生が登場するのはこのあとの場面だ。そこで彼はパンツ一丁でワイシャツを羽織っただけの格好でデスクの前に座り、インスタント焼きそばに大量の唐辛子をふりかけながら、永山を相手に滔々と語り出す。そう、こんなふうに。
「『ゼロ・グラビティ』知ってるか。見たか。見たかどうかは訊いてない。アルフォンソ・キュアロンっていうメキシコ人の監督が撮ったんだ。メキシコはどうでもいい。
箸をくるくる回してヘリを表現したり、高橋は身振り手振りを交えながら説明するのだが、何を言いたいのかいまいち話が見えてこない。そこへいきなりこう切り出す。
「刑法第175条で性行為を撮影したものは販売することは禁止されている。ところがレンタル屋に行けばアダルトビデオはある。なぜか、わかるか。モザイクがあるからだ。『えっ、モザイクしたからって本番してることに変わりはないじゃないか』『モザイクかけたからって売っていいなんて法律ないじゃないか』。(中略)何でだ、どうしてだっ!? そういう体(てい)でやっておりますよってことなんだよ。ルールじゃない。大事なのは体だ」
この間、シャワー室から出てきた裸の女(宮地真緒)がおもむろに高橋の体に舌を這わせる。たまらず女と一戦交え始めた彼は、長ゼリフをこう締めくくるのだった。
「この国は、棒も穴もモザイクの向こうに隠す体がある。わかるか。おれたちはヘリコプターの影だ。
ハリー・ポッターとAVという組み合わせが絶妙だ。いささかこじつけめいてはいるが、ハイテンションで畳み掛けるように説明されれば、聞いているほうはうなずくしかない。ここまでのセリフから薄々わかるとおり、高橋が演じる九井良明は、「ギャラクシーズ」という日本最大級のアダルトメーカーを経営している。
一方、このあとの回想シーンでは、永山演じる常末理市がAV業界に足を踏み入れるまでの経緯が描かれる。証券会社をリストラされ帰郷した彼は、ギャラクシーズグループの証券部門に再就職したつもりが、じつはその職場はアダルトメーカーのほうだったのだ。
疲弊した町がアダルト産業で再起!?
ドラマの舞台となる架空の町「萬曜町」はかつては落花生栽培を主要産業としていたが、いまやすっかり斜陽である。そこに進出したのがギャラクシーズグループだった。理市の両親(演じるのは木場勝己と根岸季衣)もAVにモザイクをかける仕事に従事し、かなり羽振りよく暮らすようになっていた。そればかりか母校の同級生や恩師がAVに出演していて、理市を愕然とさせる。
疲弊した地方の町がアダルト産業で再起するというのは、『ハリー・ポッター』とまで行かずともかなりファンタジーな設定だ。いっそ、ファンタジーはファンタジーのまま、この町を性のユートピアとして描くこともできたかもしれない。だが、もちろん坂元裕二はそんなことはしない。回を追うごとにまるでモザイクをはぎとるかのように、容赦なく現実を暴いていく。
ハマカワフミエ演じる木内桃子は、ギャラクシーズ総務部に勤務するとともに自身も女優としてAVに出演している。撮影ではいつも躊躇なく男優と絡んでいるが、その実、いろんなものを背負っていることが後半になってあきらかにされる。そこで彼女が口にする「私たちは足首につけられた枷がきれいかどうか競い合っている奴隷だ」というセリフが胸に突き刺さる。ついでにいえば、本作で坂元が抱いた問題意識は、翌年(2015年)フジテレビで放送された働く女性たちの群像劇「問題のあるレストラン」に引き継がれているように思った。
一方で、「モザイクジャパン」は男らしさをめぐる問題も突きつける。理市の小学校の元担任・津野(阿南健治)がAV男優としては致命的な事態に陥り、痛々しいまでに悩み抜くエピソードは象徴的だ。
坂元裕二が第一線で活躍し続けてこられた理由とは
先述のとおり、このドラマはWOWOWで放送された。それだけに、地上波ではできない表現やテーマにスタッフたちがここぞとばかりに挑んだ感が十分に伝わってくる。何より坂元裕二のジャーナリスティックなセンスにはあらためて感服させられた。昨年、女性に対するAV出演強要などの問題が一般紙などで報じられ、にわかに注目されたが、「モザイクジャパン」はまさにそれを先取りするような内容だった。地方の描写についても、アダルトメーカーを原発などに置き換えれば、けっして絵空事とはいえまい。
このようにテーマだけ取り出せばこの作品は社会派ともいえる。
(近藤正高)