

芸妓を口説くには、普通じゃダメ!
明治5年に先妻の蓮子夫人が亡くなり、幼い子ども2人を抱え、新しい妻を探していた、陸奥宗光。通っていた花街で売れっ子芸妓の小鈴に出会いときめいたのでした。小鈴は身持ちが固く、伊藤博文からのもらい花も断ったそうですが、陸奥には惹かれていたようです。人気者の小鈴は予約がいっぱいで落ち着いてご飯を食べる暇もありませんでした。そこで陸奥は夕食時にデートに誘い、一緒にご飯を食べる時間を作ったそう。

現代でも、デートの際にいつもと違う雰囲気の服装や髪型だと、その変化に「おっ!?」 と、急に意識してしまうことってありますよね。また、陸奥の浄瑠璃のように、それまで何とも思っていなかったのに、カラオケで歌を歌った途端にそれが上手だったりいい声だとそれだけで急にその男性がかっこよく見えたりするものです。いざという時に挽回できる、自分の十八番を持っておくのも有効かもしれません。
結婚式はやっぱりした方がいい!
さて、明治6年に陸奥宗光と亮子は結婚します。この時、陸奥は29歳、亮子は17歳。若奥様ですね。芸者育ちだったので、炊事や裁縫は得意ではなかったそうですが、陸奥はとやかく言わなかったそうです。
身分が違うので、亮子は周囲に結婚を反対されていましたが、陸奥ははちゃんと祝言をあげようと、今で言う結婚式を執り行いました。身内だけの結婚式で、豪勢なものではなかったそうですが、亮子は陸奥の気遣いがとても嬉しかったことでしょう。
現代は節約のためか、結婚式を挙げたがらない夫婦もいるそうです。でも、女性側からすると、一生に一回のこと(そうであってほしい!)。小さい規模でもいいので、身内や親しい友人だけを招いてのパーティーくらいはやっぱりしたいですよね。夫婦二人でやらないでおこうと決めたとしても、実はサプライズで男性側がパーティーを用意していたら、それはそれは感動することでしょう!
50通のラブレターは妻への愛の証♡
結婚後二人の間には清子という子が生まれ、幸せに過ごしていました。しかし明治11年、政府転覆運動に荷担した疑いで陸奥が禁固5年の刑に処せられ、監獄に収監されます。
獄中から陸奥は亮子に七言絶句の漢詩を送っています。

『夫婦天涯別れること幾春ぞ、相思空しくもとむ夢中の真。
離合は条理といえども、相思の情けに何ぞきわまりあらん
南北に二つながらに地を異にするも、夫婦この心は同じ』
南北二つの場所に離れていても、夫婦の心は同じだと詠んでいます。亮子はこの時、陸奥の友人の津田家に同居し、子どもと陸奥の母の面倒もみました。
明治十五年に特赦放免された陸奥は、翌年から欧米諸国に外遊し、勉学に励みます。陸奥はこの時も亮子宛にたくさんの手紙を送っています。その数およそ50通。
「いつも言っているように、夫婦は道連れの旅人ですから。
他にも、「娘を太らせるために、オートミールを食べさせよ。」「コレラに気をつけよ」「種痘を済ませよ」「家の守りを厳重にせよ」そして「兄の金田以外の男は親族でも泊まらせるな」などと細かい内容の手紙もたくさん! 亮子はこれをうるさいとは思わず、深い愛情だと理解しました。最後の「兄以外の男と会うな」というのは、陸奥の束縛心ですね。

自分や家族のことを思って手紙を送ってくれたり、援助してくれたり、遠くにいても愛情が感じられるのは安心しますね。現代では手紙を書く機会は少ないと思いますが、メールでも簡単な返事だけじゃなくて、気持ちがしっかり伝わる文章を心がけるとそれだけで女性に与える印象はぐんとアップすることでしょう。陸奥のように相手の体調を心配したり、気遣えることはとても素敵です。
妻の写真も大切に持ち歩いていた陸奥宗光!
海外外遊中の陸奥は、亮子の写真を持ち歩き、妻の話をする際は外国人にその写真をみせて、「美しい!」と絶賛されたそう。鹿鳴館の華、社交界の華と呼ばれた亮子の美貌は海外でも評価されたのでした。
写真を持ち歩くことは少々ハードルが高いかもしれませんが、スマホの待ち受けを好きな人や奥さんの写真にしたり、家族の写真にしている男性をみると、あぁ、相手を大切にしているんだなと愛情を感じます。仕事先のパソコンのデスクトップや、カレンダーなどにも応用が効きますね。
手をつなぐことは恥ずかしいことじゃない!?
陸奥は亮子と一緒にいるときは手をつないで歩いたそうです。妻は三歩下がって夫の後ろを歩くのが普通の時代に、堂々としていた。亮子の方が陸奥の見え方に気をつかっていたかもしれませんね。
現代の男性もぜひ、陸奥宗光と亮子の恋愛を参考に、自分が好きになった人を大事にして堂々と振る舞ってみてくださいね!