100時間という非人間的な水準が国によって認められることになるという衝撃に加えて、現在の過労死ラインや労働行政との矛盾も指摘されています。
にもかかわらず、今回の上限規制を巡って、ある意味水準が100時間へと「時計の針が逆戻りした」に等しいわけですから、「改革」に対して疑問の声が生じるとも当然です。確かに規制を設けることと罰則を設けることになったという点に関しては進歩したと評価することができますが、その水準という点では後退したと言わざるを得ません。
残業100時間未満では「働き方」はほぼ変わらない

もちろん、たとえ80時間未満であったとしても、「過労死さえしなければ良い」というレベルの話(当然80時間未満でも人によっては過労により死亡する可能性はゼロではないと考えられる)であって、一般的な労働者が健康的に働ける水準とは程遠いレベルです。メンタルヘルスを中心に、心身ともに異常をきたす人が多々いる状況を打開するには効果が弱いと言えるでしょう。
また、休息(とりわけ睡眠)は生きていく上で絶対に不可欠であり、労働者をインターバル無く働かせるというのは「ご飯を食べてはいけない」と言っているに等しいものです。にもかかわらず、「インターバル規制(終業から次のインターバルを設けることを要請する規制)」に関して見送ったことも、落胆せざるを得ません。
そもそも、過労死を予防するために残業時間の上限規制やインターバル規制を設けることを「働き方改革」という表現で言い表すことに対して、非常に強い違和感を覚えます。というのも、現状100時間以上行われている残業時間が99時間になったところで、結局は終電近くまで働かないといけないわけで、「働き方」はほぼ変わらないからです。
男女ともにリモートワークや育休取得が当たり前に選択できるようになる、本業をもたないワークスタイルが容易に実現できる等のことを推進して初めて「働き方」と言えるのではないでしょうか。
ちょんまげを1cm切ったくらいで改革とは言えない
安倍首相は今回の改正について、「歴史的な大改革だ」と胸を張っているとのことですが、上記のことから、「ちょんまげを1cm切ったくらい」の改革に過ぎないと思います。ヨーロッパでは当たり前のように行っていることを1cm程度しか実現できなかったのですから。
明治維新が改革として歴史に名を残せたのは、ちょんまげを全て捨て去ることができたからです(もちろん必ずしも明治維新が全て良い改革だったとは思わないし、ちょんまげが悪いという意味ではない)。そういう意味で今回の改正案を「歴史的」と表現するのは、不当なほど評価が過剰です。
なお、本来は労働者の人権を守る立場であるはずの労働組合(連合)に関しても、経団連と「100時間か100時間未満か」という非常に低レベルの争いを繰り広げたことに対して失望の声があがっています。
なぜ、日本人は長時間労働をやめられないのか?
それにしてもなぜ、長時間労働が問題だとこれほど叫ばれているにもかかわらず、日本は長時間労働をやめることができないのでしょうか? 本当に様々な理由があげられると思いますが、その中で最も根本的な原因は、「トラスト・ラック(信頼の欠如)」ではないかと私は思っています(編注:トラスト・ラックは著者による造語)。たとえば、以下のようなケースはその典型例と言えるでしょう。
(1)上司が部下の能力・人間性・ポテンシャルを信頼していないから権限移譲が進まないし、進めようとしない。部下にホウレンソウ(報告・連絡・相談)」という負荷を課して、“監視”する。上司自身も監視に追われて本来の仕事に集中ができず、双方で長時間労働に繋がる。
(2)他の部署やプロの仕事を信頼していないから、何かにつけて首を突っ込もうとする。そのせいで、意思決定権者が増加して、事前に膨大な社内調整が必要になる。稟議はその代表例。その一方で、トラブルが起こった時は責任の所在が不明確で、解決までに多大な時間を有する。それどころか根本的な問題を解決できず終わることもしばしば。自分たちの責任を逃れるために、細かいところまで書類で残す必要性に迫られる。
(3)他人を信頼していないから積極的な自己開示をせず、本当に信頼に足る人物かどうかを見極めるために多大な時間がかかり、コミュニケーションの円滑化が遅々として進まない。
このように長時間労働を招く日本の仕事スタイルと言われているものの多くは、その背景にトラスト・ラックがあるのではないかと思うのです。単に作業が膨大で仕事が終わらないという現場の人たちに十分なパイが行き届かないのも、意思決定を牛耳るホワイトカラー層がこのような状況に陥っているために十分な利益が生み出せないということの結果でしょう。
なぜ、上司は遅くまで残っている人を評価するのか?
また、「仕事で成果を出している早く帰る人よりも、遅くまで残っている人のほうが上司から評価される」ということが長時間労働の原因の一つと言われていますが、これも結局はトラスト・ラックの裏返しです。
他人を信頼しておらず、何を持って信頼に足る人物かどうかを判断する能力に乏しいために、彼らは時間という尺度で他人を計ってしまいます。つまり、上司等の評価者にとって、より多くの時間を用いて忠誠心を誓っている(ように見える)人ほど「安心感」が得られるために、成果を出す人よりも高い評価をするという事態に発展してしまうのです。
これは仕事に限らず、プライベートな人間関係に関しても言えます。子供につきっきり親(≒母)のほうが、保育園やベビーシッターに預ける親よりも愛情があると判断するのも、時間という尺度でしか人間関係の濃密さを測れないことの表れです。他にも恋愛・結婚等で思い当たる節のある人も多いのではないでしょうか?
トラスト・ラックは日本の闇そのものだ
様々な場面でトラスト・ラックが悪い影響を及ぼしているわけですが、トラスト・ラックが長時間労働を招くのは、何も職場内におけるダイレクトな影響に限ったことだけではありません。たとえば、海外に比べて日本はベビーシッターの普及が遅れていますが、「ベビーシッターを家に入れるのは不安」という声は欧米に比べて日本人に圧倒的に多く、ベビーシッターを信頼していないという側面も大きいと言えます。
また、国を信頼していないから、税金や社会保障に対する不信感も強く、北欧のような高福祉を実現できていません。結果的に、抜本的な子育て支援政策を打てなくなるわけです。本来は福祉拡大を目指すはずの左派の政党ほど消費増税に反対しているという矛盾が、まさにこの国の抱えるトラスト・ラックという問題を如実に表していると思います。
さらにNPO・NGOに対する信頼も世界標準に比してかなり低く、資金が集まらないために、あらゆる社会課題の解決が遅れがちです。
このように、仕事そのものだけでなく、仕事に影響を与える様々な社会環境にもトラスト・ラックが多大な影響を及ぼしており、結果的に仕事を長時間化させて遠因を招いているということも言えるのです。
日本で最も不足しているリソースは他者への信頼
今回は、トラスト・ラックが長時間労働を招く根源だということを述べて来ました。「日本が長時間労働なのは、天然資源を持たないから」という言い方をされることが時々ありますが、日本において最も不足しているリソースは天然資源ではなく、この「他者への信頼」ではないでしょうか?
実際、世界最大のPR会社エデルマンが毎年公表している「トラストバロメーター」では、日本の社員は世界で最も自分が働いている企業を信頼していないという結果が出ており、トラスト・ラックが起こっているというのは概ね事実だと言えるでしょう。
長時間労働の抑制に関しては、一律25%となっている残業代に「累進性」を持たせて、たとえば20時間以上は50%、45時間以上は100%(二倍)、60時間以上は200%とする「累進残業代」や、現金決済率低下等のIT化を進めてさせてムダなデジアナ変換作業(記帳やデータ入力等)を一掃することのように、実務的な対策がさらに必要なことは間違いありません。
ただし、やはり根本的な原因である「トラスト・ラック」という文化的な面をどうにかしなければ、労働時間を欧州並みに近付けることは不可能でしょう。信頼という社会の資産を構築することは非常に難しいことですが、絶対に取り組まなければならない課題です。現状の無策の状態を問題視して、政府、企業、そして私たち市民一人ひとりが、意識をして築いていくことが求められているのだと思います。
(勝部元気)