血気盛んな若者は、いつの時代にもおり、後先考えずに上司や先輩と衝突するものだ。20代のころの織田裕二もその一人だった。


現在も「世界陸上」で熱すぎるリポートを見せる織田であるが、彼が20代のころはさらに"熱い"男だった。そして熱い性格が災いし、撮影を巡ってトラブルになってしまったこともある。

織田裕二が起こした"騒動"


それは、1993年の映画『卒業旅行 ニホンから来ました』撮影時に起こった。
この作品は、織田が91年の『就職戦線異状なし』でもすでにコンビを組んだことがあった、金子修介が監督を務めたものであったが、トラブルが続出。のちに金子が手記で織田を批判する事態に至った。

織田はまず、脚本に難色を示したそうだ。「僕はこの脚本に興味がない」と反応し、さらに劇中で『ペッパー警部』(ピンク・レディー)を歌うシーンについては、「僕がバカになればいいですね」と言ったという。

撮影中に起きたトラブル


その後、なんとか撮影が進んでいたのだが、ある事件が起きた。花火を使った撮影の際、織田が火の粉で髪の毛を焦がしてしまったのだ。
織田は、スタッフの対応に納得出来ないと反発し、“謝罪不十分”として撮影を拒否。その場で降板を宣言してしまう。

結果的にプロデューサーが謝罪することなどでなんとか撮影が続けられたが、織田の態度に対して金子監督が「人間として許せない一線を越えてしまった」と激怒する事態にまで発展してしまった。

しかしなんとか完成にこぎつけた映画の方は、結果的にヒットして高い興行成績を記録した。
織田はそれまでの“熱さ、信念、男気”ある俳優というイメージから一変し、皮肉にも“コメディでもイケる”アピールにつながり、高評判につながったようだ。
(せんじゅかける)

※文中の画像はamazonよりThe Music Creator (ザ・ミュージック・クリエイター) 2003年1月号増刊 織田裕二 松浦亜弥 吉川晃司 [雑誌] (The Music Creator (ザ・ミュージック・クリエイター))
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