Twitterなどネット上には今も感動と、終了を惜しむ声が相次いでいる。
「カルテットドーナツホール」の4人の愛おしさやキャラクター性、セリフの数々には「共感した!」「共感ポイントが多くて泣けた」「自分も同じ!」などの意見が多数ある。
しかし、その一方で、『カルテット』にドキッとさせられたり、心が痛んだり、居心地の悪さや後ろめたさを感じる人も少なからずいたようだ。
Twitterなどネット上で探ってみたところ、以下のようなコメントもあった。
「カルテットで一番共感できたのはアリスちゃんだったな。4人は何というか、ピュアすぎる…」
「カルテットがじわじわ来ている。共感するのは夫さん。我儘なのは百も承知だが人は変われない。我が生きてくだけの金は稼がなきゃ」
「今更だけど、私が『カルテット』の4人に共感できないのは、自分がアリだからなんだって気がついた。彼らはキリギリス。生き方が全然違う。アリとしては、ちょっとキリギリスに憧れる部分もある。自分にはできないから。
自分自身、ドラマには非常にハマったのに、観ていて辛くなる場面もあった。なぜなら、世の中の圧倒的多数は、4人のような「キリギリス」ではなく、「アリ」だと思うからだ。
カルテットの4人のセリフが非常に深く、繊細であるのと対照的に、ドラマには一部、セリフも描写も薄っぺらな人が登場する。例えば、別府司(松田龍平)の弟・圭や、音楽プロデューサーなどなど。
別府ファミリーの一員で、音楽業界にツテのあるエリートの弟は、第5話で、兄たちに音楽関係の仕事を紹介する。それは、ヘンなコスプレをし、音源を流して「演奏するフリだけする」という非常に屈辱的なものだった。
これは大変失礼な話である。だが、弟としては兄たちをバカにしようと思ったわけではなく、「良かれと思って」のことである。
また、練習時間がないことなどで抵抗を示す4人に音楽プロデューサーの朝木は言う。
「飲み会も接待というお仕事です。間に合ったものが正解なの、プロは。注文に応えるのは一流の仕事。
非常にイケすかないし、醜い大人の言い分に聞こえるが、これは間違ってはいない。
また、第6話では、本社の人事部に異動になった夫が、それを真紀(松たか子)に告げ、「会社辞めたら? 現場好きじゃない?」と言われる。しかし、独立する自信がないために、現場を諦める。現場が好きだから、現場を離れるくらいなら会社を辞める……その志は素晴らしいと思うが、「そんなことできない」「簡単に言うなよ」と思う人が大多数だろう。
第8話では、また司の弟・圭が不動産屋とともに現れ、同居人を心配する様子の兄に言う。
「兄ちゃん、前言ってたじゃん。ゴミ出ししてくれないって。ダメ人間じゃん」
これにはいつも温和な司が「人を査定しに来たの? どういう資格で?」と怒りを露わにする。何も知らない人間からこんな風に仲間を侮辱されたら、それが身内でも怒るのは当然だ。だが、「ゴミも捨てず仕事もしない」人たちが身近にいたら? さらに、自分の身内と同居していたら? やはり同じことを言う・感じる人は少なくないのではないか。
第10話では、4人のもとに、5年前に奏者をやめたという人物から手紙が届く。
赤の他人に対してここまでキツイ言葉をぶつけるのは、当人が「煙」で、それを自覚して諦めた、そしておそらく悔いを残す人だから。
でも、他者に対してそんな言葉を投げつけることはなくとも、もし自分の身内だったら? やっぱり将来を不安視して、なんとか他の道を進んでほしいと思ってしまいそう。
また、週刊誌で面白おかしく書き立てられてきた“有名人”真紀を見るために、興味本位で演奏を聴きにきた者たちは、非常に醜くうつるが、もし自分だったら?
やっぱり「週刊誌で話題の人が来るみたい。面白そうだから、ちょっと行ってみるか」と思ってしまいそう。実際、Twitter上にはこんなコメントも見られた。
「しかしながら胸がぎゅーーーっとなるようなカルテット最終話だったよ…なぜってこれまで私は4人のささやかに掲げる灯を見守るような気持ちで共感をもって観てきたはずなのに、10話でこれでもかと4人を嘲る世間の醜い姿というものの方こそがむしろ私なのだということをつきつけられた気がしたから」
とはいえ、『カルテット』は、キリギリスを肯定しているわけでも「アリ」を否定しているわけでもないし、無責任な観衆や正論を吐く人々を憎悪しているわけでもない。
ただ、キリギリスにはキリギリスの思いがあること、自分目線だけで「正論を言う」ことがときに残酷で思いやりがなく、薄っぺらいものだということを、居心地の悪い思いとともに教えてくれるドラマだった。
(田幸和歌子)