売り上げもキビシく、公に評価される場も少ない翻訳書に光を!
翻訳小説や翻訳ノンフィクションの振興を目的にスタートした同賞も、今回で早くも三年目を迎える。
第三回の受賞作は、 『すべての見えない光』(アンソニー・ドーア/藤井光訳 新潮社)

と『ポーランドのボクサー』(エドゥアルド・ハルフォン/松本健二訳 白水社)

の2作。ちなみに、英語によって書かれた作品(前者)の受賞は今回が初だ。
"芸”のある翻訳と、余計なことをしない翻訳
ここ「エキレビ!」でのレビューも3回目となるので、賞の詳細については昨年の記事をご覧いただくこととして、さっそく授賞式の様子をレポートしたい。
西崎率いるバンドの演奏〜賞の説明を経て、選考委員全員が登壇、選考の様子が語られた。最終選考候補作品は、受賞作(☆)を含め、以下の6作。

『あの素晴らしき七年』(エトガル・ケレット/秋元孝文訳、新潮社)
『狂気の巡礼』(ステファン・グラビンスキ/芝田文乃訳、国書刊行会)
☆『すべての見えない光』(アンソニー・ドーア/藤井光訳、新潮社)
『堆塵館』(エドワード・ケアリー/古屋美登里訳、東京創元社)
『ペーパーボーイ』(ヴィンス・ヴォーター/原田勝訳、岩波書店)
☆『ポーランドのボクサー』(エドゥアルド・ハルフォン/松本健二訳、白水社)
本賞の大きな特徴は、一般の読者から推薦された本が候補作となることだろう。そのシステムはこれまでと同様だが、今年から、推薦できる本の数が1冊から2冊に増えたことが大きかったという。だが、これには賛否両論あったようだ。

岸本 推薦できるのが1冊だと、「他の人が挙げないような本を選んでやろう」みたいに気持ちになり、わりと捻ったチョイスになりがちです。でも今回は、鉄板と捻ったものの両方が挙がってきた印象があります。結果的に、偏りや漏れがない候補作になったのでは。
金原 でも、本当は一冊にすべきでしょ。絞りに絞った、読者の一冊への思いを我々が受け止めるのがいいわけで。
また、今年の候補作には、人種問題や戦争などを扱った作品が多かったことも指摘された。つまり、「歴史」をテーマにした作品が目立った、ということだ。
柴田 90〜00年代くらいまで、英米……特にアメリカではリアリズム小説が過度に多かった。そのあとに、ケリー・リンクみたいな人たちが出てきて、純文学の世界における幻想小説的な要素が強まった。そして、そうした流れがルーティン化し、文学全体が軽くなっていった。作家が、その軽くなってしまったものを繋ぎとめるために、「歴史」という重みのあるものに目を向けるようになったーーそういう流れはあるかなと思います。
西崎 賞をやっていると、そうした世界文学の流れを肌で感じることができますね。
次いで、話題は受賞作の評価に移った。今回は、今までで一番、すんなりと受賞作が決まったという。しかし、優れた翻訳作品は多い。
柴田 "芸”をやっている翻訳者は評価しやすいのです。昨年の受賞作『素晴らしきソリボ』(パトリック・シャモワ/関口涼子、パトリック・オノレ訳 河出書房新社)のように、原文があきらかに普通のフランス語ではない場合などは、訳すに当たって何か工夫をしなければならない。そのアイデアの部分が、分かりやすく評価ポイントになる。しかし、ほとんどの小説における翻訳は、そうした芸がポイントになるわけではなく、それどころか、なるべく余計なことはしない方がいいものなのです。そして今回は、その「余計なことをしない方がいい」タイプの作品が多かった。
余計なことをやっていない翻訳を評価するのは、案外難しいものだという。手堅い翻訳だということは分かるが、では、どの点においてその翻訳が、他の作品の翻訳よりも優れているのか? そこの判断がなかなかできない。今回受賞した2作も、「翻訳の評価」を巡る、選考委員たちのさまざまな葛藤の末に、ようやっと選ばれた作品なのだ。
作者を知っていることで、翻訳は変わるか?
松永による表彰状と副賞の授与を経て、式は、受賞者である藤井光、松本健二と柴田のトークへと突入。今回の受賞作は、2人にとって、どのように特別な作品だったのだろうか。
藤井 これまで僕は、常に既訳の存在する作家の作品を翻訳してきました。例えば、デニス・ジョンソンの『煙の樹』などは、柴田さんの訳された『ジーザス・サン』(共に白水社)という短編集があった上で刊行された作品です。

柴田 僕も過去に、既訳のある作家を担当したことがありましたが、それは以前の翻訳に違和感があったからです。「この作家は、こうじゃないだろう」みたいな。藤井さんは?
藤井 岩本さんの翻訳に、違和感はまったくありませんでした。それどころか、むしろ以前の翻訳に合わせて、自分の訳を修正するということすらしました。自分1人だと判断つかないところを、既訳に助けてもらったようなところがあります。今回は、「自分だったらこう訳す」というのは抑圧して、岩本訳になりきるーーこれが究極の目標でした。それが、結果的に自分がやった翻訳で最も良いものになった、というのが面白かったです。

松本 翻訳に取り掛かる前に、その本の作者と直接会う機会があったというのが初めての経験で、その点がすごく特別でした。しかも、普通に1冊の本を訳すのではなく、著作数冊を基にして、新たに1冊の短編集を編むということを作者本人が提案してきた。「そんなこと言う人がいるんだ!」とすごく驚いたことを覚えています。

柴田 著者を知っていることで、翻訳は変わるものですか?
松本 過去に翻訳を担当した作家は、すでに亡くなっていることがほとんどでしたが、今回は会ったのみならず、かなりひんぱんにメールでやり取りもしました。
2つの声を繋げる細い管
続いて、式の最大の山場である、受賞者によるスピーチと、作品の朗読へ。スピーチは、藤井による以下の発言が、翻訳というものに対する訳者の感慨を伝えるものとして、強く印象に残った。
藤井 『すべての見えない光』には、視力を失った娘のために、町の模型を作る父親が登場します。娘がその模型を触ることで町を把握し、ゆくゆくは自分の足で歩けるようにと、彼は時には自分の足を使い、歩数で計測し、限りなく精巧な縮尺で模型を作ろうとする。その姿は、どこか翻訳という作業と繋がっているような気がします。町そのものは石、土、金属、生きた樹木などによって作られている。そして、さまざまな音や匂いに満ちている。それを木材という別な材料によって再現しようとする行為は、ある言語で書かれた物語を、別の言語で再現しようとする翻訳者の試みとどこか似ているように思えるのです。父親は、「自分はより偉大な何かに繋がる細い管である」と考えます。彼は、町そのものと、そして、やがてそこを歩くであろう娘とを繋げる台木のような存在です。本作の翻訳を始めてから刊行されるまでの12ヶ月間、僕はドーアの書いた文章と、岩本さんの訳文という2つの声を繋げる細い管でしかなかったように思います。
西崎バンドの演奏をバックに行われた朗読も素晴らしかった。
まれに作家が自作を朗読する会というのがあるが、翻訳者が自身の訳した小説を人前で読み上げるという機会は稀だろう。その意味でも貴重だし、何より、訳者がその作品の言葉とどのように向かい合ってきたかが垣間見えて、ひじょうに興味深い。淡々と読み上げられる受賞作の言葉が、じわじわと広がり、会場は静かな感動と興奮に満たされていくーー。
「世界の多様さを豊かにしつつ、同時に理解を深めるための鍵が翻訳だと思います」
米光の結びの言葉をもって授賞式は幕。
はたして、来年はどんな素晴らしい翻訳作品に出会うことができるのだろうか。2018年も、ここ「エキレビ!」で日本翻訳大賞授賞式の模様をレポートをさせていただく所存である。

あ、でも、ここで読むのもいいけれど、会場で、生で見た方が絶対いいです(朗読の感動を味わえるのは会場だけ!)。未見の方は、ぜひ一度ご来場を!
(辻本力)