
とりあえず『プロメテウス』は見てから映画館へ!
人類の外惑星移住計画を担い、コールドスリープ状態の男女2000人を乗せて宇宙を移動していたコヴェナント号。人類が寝ている間、船の維持管理を任されているのはアンドロイドのウォルターだった。しかし強力な電磁パルスによって太陽光パネルが破損し、やむなく人間のクルー10数名がコールドスリープから起こされることになる。
パネルの復旧作業中、どこからか発信されているジョン・デンバーの『カントリー・ロード』を受信するクルーたち。発信源を辿ると、そこはすべての環境が人類の生存に適した奇跡的な惑星だった。副官であるダニエルズは反対するも、船長のジェイコブはそれを押し切ってこの謎の星に上陸しようとする。探査のため降下したクルーたちが見たのは、小麦がしげる野原や、大型の物体が落下したと思える森。そして惑星の空中に漂う謎の粒子を吸い込んでしまったクルーが、急激な体調不良を訴え始める。
体調不良の手当のために降下船の治療室に運び込まれたクルー。その背中を突き破って出てきたのは、凶暴で素早い謎の生物だった! 大混乱に陥り、誤った発砲で降下船を爆破してしまうクルーたち。逃げ惑う彼等の前に現れたのは、ウォルターより1世代前のアンドロイドであるデヴィッドだった。この惑星になぜ人類が作ったアンドロイドがいるのか。あの生物はなんなのか。
エイリアンシリーズなのかどうかすらわからないタイトルな上、唐突に「人類の起源とは……」みたいなことを言い出して「いや、エイリアンシリーズにそんな内容はあんまり求めてませんが……」とファンの戸惑いを引き起こした前作『プロメテウス』。相当はっちゃけた映画だったし、あれはもう黒歴史扱いでなかったことになるのかな……と思っていたら、『エイリアン:コヴェナント』(以下『コヴェナント』は予想以上にガチな『プロメテウス』の続編だった。
なので、最低限『プロメテウス』は見てからでないと、おそらく『コヴェナント』は意味がわからない。そういう点では「『エイリアン』につながる前日譚三部作の2本目」としては正しい映画である。また『プロメテウス』では薄くなっていた、狭い空間の中で正体不明の生物に襲われるサバイバルホラーとしての側面が強く打ち出されており、全体に初代『エイリアン』を意識した演出が多い。特に冒頭のタイトルの出方や「フェイスハガーの脚を斬り離そうとする→酸が吹き出る」の流れ、クルーたちの服装や船内のインテリア(テーブルの上の"水飲み鳥"の置物!)などディテールはかなり『エイリアン』を意識しているので、こちらも事前に見ておくと楽しいはず。
そんな『コヴェナント』の見どころといえば、まずもってマイケル・ファスべンダーだ。『プロメテウス』でもアンドロイドのデヴィッドを演じていた彼だが、『コヴェナント』でもアンドロイド役で続投。縦笛を吹いたり色々とややこしいキスシーンを演じたりと、本作でも怪しい雰囲気で大活躍である。主役のダニエルズが微妙に影が薄い(ママさんバレー感漂うやぼったい髪型は昔の『エイリアン』的でよかったけど)のを尻目に、腐女子ウケしそうなプロの仕事を見せていた。
また、エイリアン(ゼノモーフ)も良い。
『エイリアン』はリドリーのものなのか
『エイリアン』シリーズは、実のところだれが原作者と言えるのかよくわからないシリーズだ。一応リドリー・スコットがオリジネイターという感じで扱われているが、原案は脚本のダン・オバノンだという話だし、実際のところリドリーはただの雇われ監督という側面も強い。20世紀フォックスのプロデューサーたちの立場はどうなるんだとかおれはキャメロンの方が好きだとか、色々な人が色々なことをいうので、「エイリアンは誰のものか」という話にケリがつくことはないだろう。『スターウォーズ』が絶対神にして造物主であるルーカスのものだったのとは対照的である。
しかし『コヴェナント』はリドリーによる「これはおれのもんじゃい!」という宣言のような映画だった。その姿勢が出ているのが、本作における各部ディテールのデザインだ。
『エイリアン』シリーズに愛着があり、シリーズにリスペクトを抱いているデザイナーならばこれまでに登場したディテールをなんとか新作にも入れ込もうとするだろう。例えばノストロモ号のあのガビガビしたブラウン管の表示や、コールドスリープ室のウネウネした壁の模様。当然ながらタッチスクリーンなんてものじゃなくてアナログなスイッチをガチャガチャやって機械を操作してほしいし、ディスプレイはグリーンのチカチカ光るやつだし、武器は当然パルスライフルやスマートガンや火炎放射器だし、ダクトテープもどっかに出したいはずである。例えばゲーム『エイリアン アイソレーション』はこのあたりのディテールをうまく拾ってゲーム内に落とし込んでいた。
しかし、リドリーは違う。前述のように『エイリアン』シリーズはリドリーにとって「おれのもの」であり、「おれが言いたいことを言うために好きに改変できるもの」である。オタクがこだわりがちな「質感」なんてどうでもいい。
なので、『コヴェナント』におけるディテールは時系列を考えるとけっこうすごいことになっている。ディスプレイはなんの説明もなく3Dみたいなホログラムの表示がビュイーン!って出てくるし、各種のスクリーンも当然ブラウン管ではない。銃にいたってはAR系のクローンみたいな、それじゃああんた現用アメリカ軍じゃないのと言いたくなるようなライフルが登場していた。だがリドリーにとって、そんな外野のオタクの寝言は知ったこっちゃないのである。ご、ご無体な!!
もちろん前述のように『エイリアン』をリスペクトした演出はあるし、船内の風景など整合性をとろうとしているところもある。しかし、リドリーは『エイリアン』シリーズのオタクではなく、「造物主と彼が造った物の関係」というテーマについて色々言いたいことのある映画監督である。部分的な初代『エイリアン』からの引用がよくできていたぶん、リドリーによるディテールの改変具合に「ちが〜う!」と余計言いたくなるオタク諸氏も多いだろう。
しかし、そのズレから来るはっちゃけ具合は、『エイリアン:コヴェナント』によくわからないドライブ感をもたらしていたのも事実だ。果たしてこのシリーズ私物化は狼藉か蛮勇か英断か。