LGBTという言葉の認知度が高まり、LGBTが直面している問題や、抱えている悩みがメディアで大々的に特集されるようになってきた。彼らの苦しみを描いた映画やドラマも少なくない。
オタクや腐女子の友人たちに救われた
私がバイセクシャルであることを自覚したのは中学2年生のとき、同級生の女の子を好きになったことがきっかけだった。これまで付き合った同性は4人で、いずれもレズビアンかバイセクシャルだった。
LGBTでも悩まずにいられたのは、いわゆるオタクや腐女子たちが友人だったからかもしれない。中学時代、私の周りにはそういったタイプの人々が多かったが、彼らは他人からどう見られるかを気にせず、好きなものを好きと公言していた。一般的には理解されにくい趣味だとしても、あまりに堂々としていたからか、彼らをバカにする人は少なかった。その姿を見ていたからこそ、私もセクシャルマイノリティである自分を受け入れられた気がする。
友達にカミングアウトしようと決めたのは高校2年生の頃。恋愛話に異性しか出てこないことに感じるモヤモヤが、抗い難いほど大きくなってしまったからだった。とはいえ、LGBTに対する心ない言葉や、レズビアンの知り合いが受けたイジメなどを見聞きしていたので、少し不安はあった。それでも「きっと否定するような人たちじゃない」とカミングアウトしたところ、友人たちは想像以上にあっさり受け入れてくれた。バイセクシャルが現実に存在したことを喜ぶ腐女子の友人もいたくらいだ。
両親へのカミングアウト……「自分らしく生きなさい」
家族へのカミングアウトは難しいと言われている。私がすんなりカミングアウトできたのは、両親の職業が少し特殊だったことが関係する。私が生まれる前に母はスナックで働いていたし、父は今もホテルなどで演奏する現役の演奏家。どちらも夜の世界に近く、昔から多種多様な人と出会ってきている。たまにLGBTの人の話を耳にすることもあった。
カミングアウトしたとき、ほんの一瞬だったが父の目は泳ぎ、母は驚いた表情をした。もしかしたら否定的な感情が湧き上がったのかもしれないが、私がカミングアウトしたことを後悔するよりも先に、両親は笑いながら「自分らしく生きなさい」と言ってくれた。以来、私の恋愛相談に乗り、アドバイスをくれたりもしている。
「LGBT=悩める人たち」のイメージにしたくない
初めてのカミングアウト以降、恋愛について質問されたときは、バイセクシャルだと明かすようにしている。というのも、LGBTに対して差別的な考えを持つ人なのかどうかを見極めるためであり、もし否定的なことを言われればこちらから「相手と距離を置く」という選択ができるからだ。ある意味、自己防衛といえるかもしれない。ただ、距離を置くという選択ができるのは、自分にはいざというとき逃げ場となるコミュニティがあるから。だから、他のLGBTの方たちに「差別的な人間には、こちらから距離をとってしまえばいい」のようなアドバイスを押し付けるつもりは一切ない。
LGBTへの社会的な関心が高まる中で、多くのLGBTが抱える問題、苦悩についても耳にする機会は増えてきている。もちろん、それ自体はとても意味のあることだし、理解や共感を通じて共有することで、多少でも苦しみが緩和されるなら素晴らしいことだ。ただ一方で、「LGBT=悩める人たち」というイメージが定着してしまうのではないかという不安がある。実際、「LGBTは普通の人なら悩まなくていいことで悩まなくてはいけない人たち」という意見も聞くし、「LGBTには苦悩と戦いながら生きる強さがある」「LGBTは苦労していて、人生経験豊富なはず」と思い込んでLGBTに悩みを相談したがる人も多い。もちろん苦しんでいるLGBTはいるし、社会的な理解が深まることで差別や偏見など外的要因による彼らの悩みは解消されてほしい。とはいえ、“LGBTと一口に言ってもいろんな人がいる”という事実が見えにくくなってしまってもいけない。
そう考えたので、ここまで、どうして私がLGBTでも悩んでいないのか、自分なりに人生を振り返ってきた。今回は書ききれなかったが、もう一つ、自分がストリートカルチャーを好んでいることもその要因かもしれないと感じている。次回、その話をさせていただければと思う。
(上西幸江/HEW)