
プロ野球界も「90年代リバイバル」真っ只中だ。
連日に渡り中日キャンプを盛り上げた松坂大輔、西武の年間シート売上げ好調の一因として挙げられる松井稼頭央、そして去就が注目されるイチローや上原浩治。
そんな彼らも90年代はもちろんレジェンド枠ではなく、“新世代のスター”のような立ち位置だった。昭和の香りがしない、平成デビュー組。例えば、当時のイチローはそれまでの野球選手のイメージを変えるオーバーサイズのヒップホップファッションになんだかよく分からないdj hondaの黒いキャップで球場入り。今となっては信じられないことだが、94年の巨人と中日が優勝を懸けて戦った10.8決戦でも、ナゴヤ球場の内野席で無邪気に焼きそばを頬ばりながら地元中日を応援するイチローの姿がカメラに捉えられている。20歳の若きヒーローが違うリーグの優勝決定戦をプライベートで観戦に行く自由さ。今ならSNSで軽く炎上待ったなし。

当時はまだスマホのナビはなくて道に迷いまくりだったし、ビデオのタイマー録画は野球中継延長でドラマが途中30分で切れちゃう不便な生活。そんなあの頃がいい時代だったというのはイージーだが、ユルい時代だったのは確かだと思う。
それは野球本でも同じことで、2000年代のメジャー移籍後に多くのイチロー本が発売されたが、262安打のシーズン新記録を樹立した04年以降になると打撃の達人や職人といったイメージが強くなり、自己啓発風の書籍タイトルも目立つ。もちろんそれなりに読み応えがあるが、個人的には無防備なデビュー直後の94年秋から95年にかけてのものが圧倒的に面白いと思う。
周囲に影響を受けながら“イチロー”に
“鈴木一朗”から“イチロー”へと登録名を変更した94年シーズン、130試合制のプロ野球記録210安打を放ち、パ・リーグ最高打率.385を記録したオフに出版された1冊、『イチロー20歳の挑戦』(未来出版/著者は90年代を代表するスポーツライター故・永谷脩氏)は今読むと興味深いエピソードの数々が収録されている。
例えば、この年のイチローは12号アーチを放った時に貰ったマスコット人形をある先輩選手の長男にプレゼント。
そして、球場から合宿所まで寮住まいのイチローを車に乗せて「今年のチームはやりやすいなぁ」なんて言い合いながら送っていたのが、同期入団で現オリックス2軍監督の田口壮である。点が線でつながり、もしかしたら今のオリックスの体制はイチロー復帰にも対応できる人選なのでは……なんて突っ込みは野暮だろう。
前年の93年シーズン、1軍では1打席打てないとすぐ交代させられ、ウエスタン・リーグ新記録の30試合連続安打、45試合連続出塁とどれだけ2軍で打ちまくろうが無視されたイチローと、前監督からスローイングをしつこく指摘され「巨人ではこの程度はドラフト1位じゃない」なんて意味不明なしかられ方をするうちにノイローゼ気味になってしまった田口。それでも彼らは腐らずに、周囲が感心するほどの猛練習に励む。振り子打法と呼ばれる独特のフォームも2軍で河村健一郎バッティングコーチと作り上げたものだ。
「今あるのは河村さんの指導と、仰木監督が使い続けてくれたおかげです。いつ代えられるのかという心配なく、安心して打席に入れましたから。それと前監督の土井さんですかね。“このまま終わっていられるか”という反発心を起こさせてくれた意味でね」
前年のオリックス1軍首脳陣は一度も2軍戦を見に来ることはなかったという。それが94年から仰木彬監督がやってきて、新井宏昌打撃コーチの発案で“イチロー”へと登録名変更。

天才打者が母の手作りカレーライスを食べ続けた理由
興味深いのが「落合博満さんは雲の上です。清原和博さんの足元どころか影にも及びません」と謙遜する男が、堂々と寝坊すると噂の1つ歳下の松井秀喜だけには「どんな性格なんですか?」なんて関心を示す。いわば同時代を生きる同世代のライバルの存在。この後、90年代中盤以降の日本球界は完全な“イチロー・松井時代”に突入することになる。
当時、度々スポーツニュースで紹介された田尾安志(中日)のサイン色紙が飾られた部屋写真はどこにでもある、男の子の一室だ。プロ入り後、瞬く間に球界最高の打者へと駆け上がった背番号51はたまに帰省すると、母・淑江さんの手作りカレーライスを必ず食べて合宿所へ戻ったという。20歳のスーパースターが市販のハウスのルーを2倍くらい入れて辛くした家庭的なカレーを食べ続ける理由はシンプルだ。
「最近、いろいろうまいものを食べに連れて行ってくれる機会が多くなりました。でも、自分は最初の頃を忘れないためにそうしたい」
母のカレーライスを食べている瞬間は、天才イチローも鈴木家の次男坊“鈴木一朗”でいられたのである。
(死亡遊戯)
参考資料『イチロー20歳の挑戦』(永谷脩著/未来出版)