
彼(公太郎)は私よりも国語力に長けているため、執筆している記事の校正を頼むこともしばしば。
書籍に収録した、webで公開している過去記事と書きおろし原稿の校正も行ってもらいました。
自分としては、彼の能力を信頼した上での頼み事だったわけですが、この出来事が思いも寄らぬ落とし穴に……。
書籍に収録する記事を読んで彼が激怒
ある夜。私が別の作業をする横で、黙々と校正する記事を読んでいた彼が突然真剣な眼差しで質問を投げかけてきた。
そう。記事には、過去の男性とのやり取りや肉体関係を赤裸々につづったものも当然含まれている。その時ばかりは、「やってしまった……」と心の中で頭を抱えた。過去とはいえ、良い気はしないに決まっている。
真っ先に浮かんだのは、イエス。マドカ・ジャスミン初の書籍で、そこに掲載させるものは100%……いや、120%の出来でありたい。彼の心情を考えなかったわけではないが、同じぐらい“仕事の成功”の存在が大きかった。
返答を皮切りに、彼はまた作業へと戻った。一安心し、作業を続け、途中で入浴。戻ってきた頃には彼の作業は終わりに近づいていた。だけど、何だか様子がおかしい。ヘッドフォンをし、呼びかけにもろくな反応を示さない。さらには、いつものように一緒に寝るとなっても、そっぽを向かれる始末。
さすがに気づいた。彼は、すごく怒っている、と。
翌朝、彼の様子はまるで変わっていなかったし、私の存在すら無視しているようにも思えた。
仕事とプライベートはさすがに分けているらしく、打ち合わせでよく喋る彼に安堵感を抱いた。けれど、打ち合わせが終われば、また無表情かつ無口に早戻り。
こうなったら必死である。街を歩きながら、どうにか彼の機嫌が好転するようなワードを挙げまくるも、それらも意味はなく、彼の横顔にはさらに暗さが増したような気がした。
空腹では冷静に考えられないと入った飲食店でも、彼はかたくなに視線を合わせようとはしない。それでも、私は彼の目を見続けた。目を逸らしたら、二度と目が合わせられない恐怖があったからだ。
ここまでくると、混乱状態に陥っていた。このまま帰宅したところで、この地獄が続くとしたら……気がつけば、行きつけのカフェへと彼を引っ張っていた。
半分驚き、半分迷惑そうな彼が椅子に腰かけ、口を開く。
彼は、これは彼自身の問題なので話し合う意味はなく、時間が解決してくれるのを待つしかないと言う。
それでもこれは私の問題でもある。だから、どうしても話し合いたかった。人は探してるものしか見つけられないのだ。
自分が傷ついたとしても、状況が好転するのであればそれを受け容れよう。どんな言葉が飛んできても、絶対に解決する。そう意気込んだ私に投げかけられた言葉は、どんな氷柱よりも冷たく、鋭利なものだった。
「マドカ・ジャスミン」が彼を傷つけた
セイリテキニキモチワルイ。一瞬、理解ができなかった。
分かってる。この言葉も、この状況を選んだのも、間違いなく私自身だ。身が張り裂けそうなショックを受けようが、望んだのは私なんだ。怒りにも、悲しみでも、むなしさでもない感情でどうにかなってしまいそうだった。
今までも喧嘩をすることは多々あったけれど、「触れたくない」までに発展することなんてなかった。それ故にどんな言葉が効果的なのか、どんな提案をしたら、彼が納得するかがまったく分からない。少しばかり皮肉めいた声色で彼は続ける。
でも、君の仕事、今回の書籍は成功してほしい気持ちもある。それで俺は君に“やるかやらないか”を聞いて、君にやってと言われたからやった。仕事だから、責任を持って、心を無にして、押し殺してやったよ。
彼のトラウマというのは、過去の恋人たちの裏切りにまつわることだった。その話は度々聞いていて、過去の喧嘩でもそのことが起因したものもないわけじゃなった。けど、私は彼と一緒になってから、浮気のうの字どころか他の男性との連絡すらろくに取らなくなった。彼の気持ちも分からないわけではなかったが、納得のいかなさが沸々とあふれ出す。何故彼を傷つけ、離れていった元恋人たちを引き合いに出されなきゃいけないんだ。心に渦巻くそんな言葉がどうやら顔にも表れていたらしい。
無理だった。何を言おうが彼は心を閉ざしたままで、らちが明く予兆すらもない。彼もそれを察知したらしく、店員さんを呼んだ。
最寄り駅までの間中、少し前を歩く彼の背中を見ながら考えた。私が今までしてきたことは、執筆してきた内容は、何だったのか。
露骨な性的表現や、奇抜な行動。時には人から嘲笑されることもあった。「マドカ・ジャスミン」であるために犠牲にしてきたことだって、少なかったわけじゃない。淡い恋だって、ギラギラしたつぶやきでかき消したことだってあった。それでも私は、ライターという唯一の武器を手に成り上がろうともがき、はい上がってきた。成功するなら、感情だって押し殺せばいい。そして、成功すれば、大切な人を守れる。そう信じてきた。
なのに、たった一人の愛するパートナーでさえ守れず、この手で傷つけてしまった。
マドカ・ジャスミンのせいで、傷つけてしまった。
彼が提案してきた「ロンギヌスの槍」
帰宅しても、いつものような会話はない。静かな部屋には、点けたばかりのヒーターの空気音のみが響いている。冷え切った夜と冷え切った二人。いつもならハグを交わしているのに、彼はベッド、私はソファーに身を置いた。この状況を絶望以外でなんて表現すればいいのだろうか。
今までの喧嘩はいつも仲裁役がいた。お互いの価値観の違いを翻訳してくれたおかげで、仲直りした時が何度もある。けれど、人ばかりに頼ってもいられない。この先こうして揉める度、他人が介入しなきゃ仲が直らない関係に未来なんてあるのだろうか。
ただ、そんな悠長な理想を掲げている時間もない。私の手だけではどうにもならないことも分かり切っていた。
私の人間性と仕事を理解し、なおかつ彼にも共感してくれる。その条件に当てはまる男性が一人だけいた。その人には以前からいろいろ相談に乗ってもらっていて、彼とも面識がある。ふだんから電話相談も行っているので、中立の立場でいてくれるに違いない。
わらにもすがる思いで電話をかけると、男性は即座に出てくれた。「公太郎の話を聞いてほしい」と一言だけ伝え、iPhoneを彼へと渡す。
戸惑いつつもiPhoneを受け取った彼は話し始めた。1メートルほどの距離を置きながら、祈るような気持ちでその様子を見守る。
一旦席を外しつつ、様子を伺っていれば、男性同士ということもあってかどうやら話は円滑に進んでいるようだった。約30分後、iPhoneが返ってきた。男性は、いつもの穏やかな口調で言う。「公太郎くんにもプライドがあるから、俺に話させるのはちょっと違うよ。でも、マドカもマドカで悩んでたんだよな」
一言で何かを言い当てられた気がした。通話を終えると同時に、彼が声を発した。誰が聞いても怒気をはらんでいると感じる口調だった。
君のマネジメントをやっていく中で、今回原因になったことに何度も触れるだろうし、その度に思い出す。別れるという選択はないけど、君が選択したことなら長い目で見るしか解決方法はない。
彼は正論だ。それに返す正論も浮かばない。またもや沈黙が続く。無責任かもしれないけれど、正直この場から消え去ってしまいたかった。むしろ、消え去ろうと足が動きかけもした。
覚悟なんてあるに決まってる。わずかでも望みがあるならば、そこに賭けないという選択肢は存在しない。意を決して聞いた。
不思議と特別な驚きはなかった。確かに荒業ではあるが、打開策としては究極の一撃とも言える。言ってしまえば、セックスもコミュニケーションだ。それも言葉よりも深いところで理解し合えるコミュニケーション。
恋での傷は恋でしか癒やせないように、セックスでの傷はセックスでしか癒やせない。
決定してるセックスを前にしたバスタイムにひどく懐かしいものを感じた。いつしかあった日を思い出す。行為後の未来が分からない独特の怖さと彼に早く触れたいという欲求が体内で炎のように揺らめく。シャワーの熱と内側からの熱に急かされ、いそいそと浴室を後にした。
部屋に戻れば、ベッドに横たわる彼が私を見つめている。何気ない光景が何だか新鮮で、とてつもなく愛おしかった。ショック療法とはいえ、これからこの人を好きにできるという事実に興奮さえも覚えた。我ながら、欲求の回線が狂ってるな、なんて笑いそうになる。何となくベッドサイドに置かれていたアイマスクを彼に着けさせた。
びっくりしながら、一日ぶりに笑った彼に込み上げるものがあった。そう、この顔を見てたいだけなんだ。彼の笑顔を一番近くで見てたいだけなんだ。彼への感情に何も難しいことなんて無かった。複雑化させていたのは、自分だったのかもしれない。
彼の一言で、“治療”が始まった。これもまた一日ぶりの彼の匂いや肌に心がたかぶる。何も反応しない彼を余所に私はいつも以上に愛情と欲の波に溺れていく。「好き」「愛してる」頭の中はそればかりが浮かんでいた。
セックスの最中に「気持ち悪い」なんて言われたのは、当たり前のことだが生まれて初めてだった。途中でアイマスクを外しても、一向に彼は目を開けてはくれない。前みたいに私を見てほしくて堪らなくなる。簡単なことなのにそれすらも叶わない。近くにいる彼がはるか遠い彼方にいるみたいだった。彼が不快だというこの行為も、私にとっては幸福そのものだった。こんなにも、愛してる人との肌の触れ合いが気持ちいいなんて。不謹慎とも言えるが、彼への罪悪感がスパイスになっていたのだ。
何度目かの上下運動をしていた時、突如彼が目を開けた。視線が近い距離で交じり合う。彼の瞳に私だけが映っている。喜んだのも束の間、彼はこの状況では考えられないほど冷静な声で私に問うた。視線は真っすぐ私を見つめたまま。
君が本当に欲しいものは、何なの?
悔しいけど、即答できなかった。私が本当に欲しいものは、何なんだろう。大勢からの称賛や承認? 地位や名誉? 昔の自分からの成り上がりや下剋上? それとも、自分を愛してくれる人と歩んでいくこと? 穏やかな生活?
彼の視線はまだ私を捕らえて離してくれない。見兼ねたのか、あるいは私の思考を読み取ったのか、彼はさらに続けた。
“マドカ・ジャスミン”が成功すれば、きっと自分の抱えていたコンプレックスやフラストレーションは分かりやすく解消されるだろう。ただ、成功する過程で大事な人を傷つけていくことに何の意味があるのだろうか。そこまでして、得たいものに果たして価値はあるのか。考えてみれば、私の異性交遊の起因は、「愛してくれる人を探す」だった。時に泣き、時に失望し、時に怒り、それでも自分を受け容れてくれる人を探し続けてきた。彼と出会えたのは、パートナーになったのは、自分が求めていたことそのものだ。
なら、結論は一つしかない。
仕方ない。二兎追う者は一兎をも得ずという言葉は嫌いだったが、生きていれば決断しなければいけない瞬間が必ずある。それが今だっただけだ。例え、私が“マドカ・ジャスミン”を失おうと、膨大な迷惑を掛けようと、仕事なら新しく作れる。根拠なんて1ミリもないけど、どうにかできる、する自信はあった。仕事は新しく手に入れられる。でも、愛し愛せる人にこの先出会えるかなんて分からない。
迷いは一切なかった。
一つの終焉を迎えた。そう思った瞬間、彼に腕を引っ張られ、横に寝かされた。喧嘩後の仲直りセックスなんてよくある話だけど、そんな表現すら陳腐に感じるほどその行為は、それはそれは素晴らしいものだった。明日から不確定な未来が待っているのに、彼が真正面から触れてくれることにこの世に存在するあらゆる感情が集約されている感覚を抱いた。誰かの評価とか、顔色とか、それらすべてがちっぽけで今この時間こそが生きているということなんじゃないか。燃え上がる熱の中で、そんなことを思い浮かべていた。
行為後の微睡みの中、彼がまた真剣な眼差しを向けてきた。少し間を置いて、彼はまた口を開く。
嘘、だって? 一気に微睡みが覚め、疑心暗鬼に陥りかけながら彼を見る。彼はいつもの調子に戻っていて、どこか諦めたようなあきれているような様子でもあった。
かくして、約一日に及ぶ壮大(?)な喧嘩は幕を閉じたのであった。

今までも、街中で追いかけっこをしたり、取っ組み合いになったりしたこともあったが、ある意味こんなに静かで重い喧嘩は初めてだったかもしれない。
どの喧嘩でも共通して言えるが、人はこちらの考えを伝えても、意図しない捉え方をしてしまう。いくらパートナーであろうと、きちんと意思疎通をしなければ争いの火種となってしまう。回避するには、お互いの考えを的確に伝え合うこと、それも思いやりを前提にしかない。
そうは言っても、今回みたいにらちが明かないとなれば、とりあえず一回セックスしよう。
笑う人がいてもいい。しかし、何度も言うようだけど、セックスはコミュニケーション。100回言い争うぐらいなら、1回セックスして解決したほうがいい。百聞は一見に如かずならね、百言は一性交に如かずだ。至極真面目に言っている。
今回用いたショック療法「ロンギヌスの槍」作戦で、私はそれを痛いぐらい学んだのであった。
(マドカ・ジャスミン)