日本テレビの番組、とくにバラエティがどうも苦手だ。実際、イモトアヤコやブルゾンちえみ、ひょっこりはんなど日テレの番組でブレイクした芸人を、同局のバラエティを敬遠していたおかげで、世間より結構あとになって知るということが少なくない。


苦手とする一番の理由はおそらく、視聴者の最大公約数を過剰なまでに意識した番組のつくり方にあるのだろう。たとえば、テロップやワイプを多用して笑いどころなどを示すという手法は、もちろん、ほかの局でもすっかりおなじみとはいえ、日テレの番組にとりわけ顕著な気がする。また、バラエティではないけれど、以前、同局の「金曜ロードSHOW!」である洋画が放映された際、登場人物の属性など説明をいちいち画面上にテロップで入れて、SNS上で多くの視聴者から顰蹙を買っていたことを思い出す。

そんなわけで、戸部田誠(てれびのスキマ)の新刊『全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方』(文藝春秋)をレビューでとりあげようと思い立ったものの、自分にその資格があるのかどうか、ちょっと迷った。だが、「はじめに」の一行目で、《誤解を恐れずに告白すれば、僕は日本テレビのバラエティが苦手だ》と戸部田自身が書いているのを読んで安心した。

「日テレのバラエティは苦手」と告白する「えげつない勝ち方」著者も魅せられた日テレVSフジの逆転劇
『全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方』 戸部田誠 てれびのスキマ

そもそも本書はタイトルからして“誤解を恐れない”ストレートな題名だ。副題の「えげつない勝ち方」というフレーズは一見すると批判ともとられかねないが、けっしてそうではないことは本書を読めばわかる。

上司との対立から生まれたワイプ術


本書を読んでいてまず驚いたのは、昔から日テレに苦手意識を抱いてはずの自分が、ここで出てくる1990年代の日テレの番組を案外よく見ていたということだ。序章で日テレの転換期を象徴するものとして登場する1992年の「24時間テレビ」で、視聴者から募ったフレーズをもとに、加山雄三と谷村新司が放送中にテーマ曲「サライ」をつくりあげたことはよく憶えているし、ほかにも同時期に人気を集めた「マジカル頭脳パワー!!」や現在も続く「世界まる見え!テレビ特捜部」などは中高生のころ、毎週家族で見ていた。

このうち「世界まる見え!テレビ特捜部」は、海外のさまざまなテレビ番組を、レギュラーの所ジョージやビートたけしらがコメントを入れながら紹介する番組だが、あるときなど原発事故をシミュレーションしたドキュメンタリーをとりあげるなど、ときに硬派なところも見せて好きだった。

じつはこの「世界まる見え」は、ワイプが先述のような使われ方をするきっかけをつくった番組でもあるらしい。同番組を立ち上げた吉川圭三によれば、それはあるドキュメンタリーを番組内で流そうとしたときのこと。
そのドキュメンタリーはどんなに短く編集しても18分弱の放送尺が必要だった。しかし、この長さでは、視聴者が途中で何の番組を見ているかわからなくなってしまいかねない。

案の定、そのVTRを事前に見た上司からは、3分の2以下の時間にするよう命じられる。だが、これ以上短くしても、あるいは前・後半に分けて途中で出演者のコメントを挟んで放送したとしても、このVTRのよさが損なわれてしまうと考えていた吉川は頑なに聞き入れなかった。それでも上司のメンツをつぶすわけにもいかない。そこで彼が選んだのが、VTRはそのままに、スタジオでそれを見ているたけしや所の表情をワイプで入れるという方法だった。


もっとも、吉川は現在のバラエティ番組におけるワイプの使われ方には否定的だ。本書ではこんなふうに語っている。

《最近よく見るワイプは一番いい場面で入れているけど、あれは間違いだと思うんです。ストーリー上、邪魔にならない、むしろ、画面のダレてくるところに僕は入れていたんです。現場でちゃんと見てますよというアリバイとしてね》

吉川は最後まで素材をそのまま生かすことにこだわり、ワイプはあくまでも上司との折衷案として採用したにすぎなかったのである。

“宿敵”フジテレビとの共通点


日本テレビは1953年、NHKに続き、民放では初めてテレビ放送を開始した伝統ある局だ。60年代から70年代にかけては「シャボン玉ホリデー」「11PM」「傷だらけの天使」「スター誕生!」「金曜10時!うわさのチャンネル!!」など多くの人気番組を生み、テレビ界に君臨した。
だが、それが80年代に入ると、後発のフジテレビが「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」などバラエティ番組を中心に急速に勢いを伸ばし、1982年からはじつに12年も年間視聴率で三冠王(全日・ゴールデンタイム・プライムタイムいずれも1位)を獲得し続ける。これに対し日テレには陰りが現れ、在京キー局のなかで3位が定位置となり、ひどいときは最下位がすぐ背中に迫るという状況に陥ることさえあった。

本書はそんな日テレが、会社を挙げて改革に取り組み、フジテレビから三冠王の座を奪取する1994年(結果が判明したのは翌95年1月2日)までの過程を、対抗するフジの社員を含む多くの関係者への取材をもとに詳しく追っていく。そこで気づかされるのは、そこで日テレが行なった改革の多くが、かつてのフジテレビを手本にしていたという事実だ。

たとえば、1992年に日テレの副社長に返り咲いた氏家齊一郎(のち社長、会長・CEOを歴任)の掛け声のもと行なわれた構造改革では、それまで強い力を持っていた制作と営業に代わり、編成が局全体を主導するようになった。これはフジテレビが80年代初期に断行し、成功の主因となった改革をそっくり踏襲している。
本書によれば、氏家はこれ以前、80年代に日テレ副社長を務めていた時期から、フジで改革を成功させた鹿内春雄に話を聞き、そのやり方を研究していたという。

また、フジテレビでは70年代、制作部門が切り離され子会社化されていたが、1980年、当時副社長だった鹿内春雄がこれを本社に吸収した。このとき子会社から多くの若手ディレクターが社員として採用され、のちに「ひょうきん族」や「いいとも」などを手がけてフジ躍進の推進力となる。

これと似たようなことが日テレでもやはり起こった。1987年からは中途採用制度が導入され、前出の吉川圭三や、のちに「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」「マジカル頭脳パワー!!」を手がける五味一男、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」を手がける菅賢治など、90年代以降活躍する人材があいついで採用されている。日テレは、さまざまな改革とあわせ、こうして世代交代を推し進めることで、王者フジテレビに立ち向かっていったのだ。


なお、本書のタイトルに掲げられた「全部やれ。」は、1992年の冬、副社長から社長に就任した氏家が、前出の吉川や五味、あるいは土屋敏男(「進め!電波少年」のT部長)など当時の若手ディレクター、プロデューサーたちを集めて会食した際に口にした発言からとられている。このとき氏家から《日本テレビを良くするために必要なことを全部言え》と言われた若手社員たちは、酒の勢いも手伝ってここぞとばかりに自局の抱える問題点や不満をぶつけた。これに対し、すべてを聞き終えた氏家が言い放った一言が、《お前らが言ったことを明日から全部やれ》であったという。

大晦日に野球拳を放送してまで、日テレがめざしたものとは?


氏家はもともと読売新聞の記者出身で、自分にはテレビ番組の良し悪しはわからないという自覚から、日テレの副社長に返り咲いてからは現場に口出しはしないと決めていた。それゆえに彼は、番組に対しては視聴率が獲れているか否か、ただそれだけを評価基準にすると言い切った。このことは目標を明確にし、社内の意思を統一させ、日テレの逆転劇へとつなげることになる。

本書のクライマックスは、その逆転劇へといたる1994年だ。この年、日テレはいったんはフジテレビにリードしたものの、10月のあるできごとにより逆転され、この年の最終週を前に日テレとフジの年間視聴率はわずか0.01%の僅差で勝負が決まるという状況となった。その大晦日の夜、日テレが放送したのは、ジャンケンで負けたほうが服を脱ぐ野球拳を目玉とした特番「ダウンタウンの裏番組をブッ飛ばせ!!」である。かつて低俗と批判されながらも人気を集めた番組「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」を、ダウンタウン司会により復活させてまでも勝利にこだわったというのが、いかにもえげつない。しかし、現場は必死だった。同番組を手がけた菅賢治はのちに《視聴者の求めるものはタレントの出すナマの迫力あるエネルギーじゃないんですか。アソビに対して必死になってしまうプロセスが面白いはずなんですよ。テレビ番組がこざかしくなって、どんどん中途半端になっている。だから徹底的に見せた》と語っている。

こうした日テレのなりふりかまわぬ姿勢には、もちろん批判もあるだろう。だが、同局が視聴率競争で勝利し、そしていまなお独走を続けているのは、菅が語ったように、ほかの何よりも視聴者の望むものを見せたいという情熱をえげつないまでに追求しているからこそではないか。

本書は、そんな現場のつくり手たちの思いを、証言や資料を駆使しながらドラマチックに描き出している。「日テレのバラエティは苦手」と言いながら、同局の逆転劇にはあらがえない魅力があったことは著者の戸部田も認めるところだ。

若者のテレビ離れと言われて久しい。だが、本書を読んで、少しでも志ある若い世代がいま一度テレビに関心を持ち、できることならその世界に進んでくれることを、著者と同世代のテレビっ子としては願わずにいられない。
(近藤正高)