さくらももこ急逝から、2月15日で半年が経つ。公表された約一ヶ月後に発売の『りぼん』11月号(集英社)では たっぷりと追悼企画が掲載され、その後の12月号から3月号には親交のあった漫画家による思い出トーク「さくらももこさんと私」、それぞれが選んだ『ちびまる子ちゃん』お気に入りの話が一話ずつ掲載された。
また同時に、さくらももこの半自叙伝漫画『ひとりずもう』も12月以降毎月掲載され、こちらはまだ続いている。
「りぼん」追悼企画「さくらももこさんと私」尾田栄一郎は「尾田っち」「おどるポンポコリン」誕生秘話続々
2018年12月号から2019年3月号『りぼん』

思い出トーク「さくらももこさんと私」では、『りぼん』出身の漫画家・水沢めぐみ、柊あおい、小花美穂が3〜5ページのエッセイ漫画を、最終回には『ONE PIECE』の尾田栄一郎がイラストとコメントを寄せた。
ここで、各先生とさくらももこの関係性を簡単にまとめてみる。

【水沢めぐみ/代表作:『ポニーテール白書』『姫ちゃんのリボン』など】
《2つ年下のももこはかわいい妹みたいな感じでした》とのこと
・お互いの一人暮らしの家が近く、よく一緒に過ごしていた
・原稿をよく手伝い合っていた
・お互いの呼び名は「ももこ」「めぐみちゃん」

【柊あおい/代表作:『星の瞳のシルエット』『耳をすませば』など】
・デビューは同期。さくらももこが3歳年下
・さくらももこがまだ10代の学生で静岡在住だったころに文通をしていた
・20代前半のころは、同じ沿線上に住む水沢めぐみも一緒によく過ごしていた
・お互いの呼び名は「ももこ」「あおいちゃん」

【小花美穂/代表作:『こどものおもちゃ』など】
・新人漫画賞の授賞式で、審査員だったさくらももこと出会う
・デビュー前にさくらももこのアシスタントをしていた
・漫画家を諦めようとしてたときに、さくらももこに何度も励まされデビューに至る
・お互いの呼び名は「ももこ先生」「小花さん」

【尾田栄一郎/代表作:『ONE PIECE』など】
・『ONE PIECE』の連載中に親交が始まり、さくらももこデビュー30周年記念のムック本で対談をしている
・お互いの呼び名は「ももちゃん」「尾田っち」(「さくら先生から尾田先生と言って頂くのは恐縮なので」というやり取りの結果そうなった)

尾田栄一郎は、自身のお気に入りのキャラ「藤木」について描き、『りぼん』出身の3名は、『ちびまる子ちゃん』の連載開始前からアニメがスタートした頃まで(85年〜90年頃)の思い出のエピソードをエッセイ漫画にした。

初めて『ちびまる子ちゃん』という言葉を聞いたときのエピソード


80年代半ば、同じ沿線上に住んでたさくらももこ、水沢めぐみ、柊あおいはよくお互いのアパートを行き来し、仕事も遊びも共に過ごし、「楽しすぎて本当に幸せな日々だった」と振り返る。

《あたしね、りぼんで連載もらえたら、タイトルもう決めてるんだ。
『ちびまる子ちゃん』っていうの》


行きつけの小さな居酒屋でそう言われ、思わず心の中で「やられた!」と叫んでしまうぐらいステキだと思ったという水沢めぐみ。

《『サザエさん』みたいな感じで描いていったらいいと思うんだよー》

そう言ってたのを思い出しつつ「ホントに『サザエさん』みたいな国民的まんがになったね」と振り返る柊あおい。

日本中の誰もが知るほど有名になって、遠い存在になってしまったような寂しさを覚えたり、けど会うと変わらない。有名になる前から知ってる同世代の友人だからこそのエピソードだ。

「おどるポンポコリン」は歌詞になかった


『ちびまる子ちゃん』のアニメ化が決まったころにアシスタントをしていた小花美穂は、「おどるポンポコリン」の完成一歩手前の音源や裏話も聞かせてもらっていた。
その時点で歌詞はずっと「ピーヒャラ」のみだったが、完成間近にインスピレーションがわいて「おどるポンポコリン」というフレーズが足される。それが最終的に歌のタイトルにもなった。
もしその瞬間の思い付きがなかったら、ヒットの方向性はどうなっていたのだろう。

自転車、まる子の家の外観、豪邸、テレビ、背景の点々……この絵をあの漫画家が


この3名は全員『ちびまる子ちゃん』の原稿にペン入れした経験がある。手伝った絵が載ってる回をそれぞれがお気に入りの話として挙げ、それが丸ごと掲載された。

【水沢めぐみ】「まるちゃん自転車の練習をする」の巻(1987年11月号/連載16話目)
《ももこに手伝ってもらってばっかりだった私が、珍しく(もしかしたら唯一?)ももこのお手伝いをした回です》

さくらももこのペンタッチに似せて、まる子の家の外観、自転車、テレビ、背景の点々などを楽しんで描いた。基本手伝ってもらってばっかりで、手伝う側だったことはあまりなかったというので、この回は貴重だ。

【柊あおい】「まるちゃんの町は大洪水」の巻(1987年7月号/連載11話目)
《時間がなくてキャラクターのペン入れを頼まれて、「まるちゃんは自分で描かなきゃダメだよ」と言った覚えがあります》

洪水の回で、救助を待ってるてるてる坊主のような人たちを描いた。柊あおいは、この頃を「文化祭準備の合宿みたい」だったと振り返る。

この頃(86〜87年)の『りぼん』本誌のもくじ下の漫画家のコメント欄を改めて読んでみると、みんなで集まってカラオケ大会をしたりディスコに行ったり、とても仲の良い様子が伺える。

【小花美穂】「花輪邸ついに公開」の巻(1991年1月号/連載52話目)
《どの話も思い出深いのですが、背景の大変さではこの回がダントツだったので選びました。豪邸の資料がほとんど無くて大変でしたが、大きい所を任されて嬉しかったです。》

友人として手伝ってた水沢めぐみ、柊あおいとは異なり、小花美穂はアシスタントとしてのコメントだ。建物を描くときも定規を使うのはNGで、フリーハンドで描かなければならなかったのが最初は難しかったという。

現役「りぼん」読者がどう読んだのか


毎週日曜に放映されている『ちびまる子ちゃん』のアニメは見慣れてても、『りぼん』でのレギュラー連載が終了してから今年で23年になるので、「『りぼん』で連載してた」という印象を持ってる人は30代以上になる。

作風や絵も初期の頃と最近ではかなり異なっており、アニメに馴染んでる現役読者にとっては「親が子供の頃に見てたまる子」ぐらいの感覚になるはずだ。
「りぼん」追悼企画「さくらももこさんと私」尾田栄一郎は「尾田っち」「おどるポンポコリン」誕生秘話続々
1巻と最新の17巻

そんな現代の子供達が『りぼん』に掲載された30年前の『ちびまる子ちゃん』にどんな感想を持ったかも気になるところだが、これをきっかけに原作(17巻)にも興味を持ってくれたら嬉しいと当時の小学生としては思う。
(さくらいみか)