おおっ『図書館の魔女』高田大介の「初の長篇民俗学ミステリ」だ「杉江松恋の新鋭作家さんいらっしゃい!」
「杉江松恋の新鋭作家さんいらっしゃい!」第6回。デビュー作、あるいは既刊があっても1冊か2冊まで。そういう新鋭作家をこれからしばらく応援していきたい

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ミステリーを選んでくれて、ありがとう。
高田大介の第三長篇『まほり』(角川書店)が刊行されると聞いて真っ先に思っ浮かんだのはその一言だった。高田のデビュー作は2010年に第45回のメフィスト賞を獲得した『図書館の魔女』だ。一般的にはミステリー専門と考えられているメフィスト賞だが、実際にはもう少し広く門戸を開いており、ファンタジーと呼ぶべき作品も過去には受賞している。最近ではさらに賞の規定を改め、文芸全般が対象ということになった。水墨画を題材とした青春小説『線は、僕を描く』が2019年に第59回の受賞作となったことはまだ記憶に新しい。
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『図書館の魔女』もミステリーというよりは異世界ファンタジーの色が濃い作品だった。受賞から3年後、2013年に発売されたこの本はよく売れた。上下巻で1700ページを超える大作なのに、増刷が間に合わなくて本屋から一時消えたほどだった。デビュー作としては異例のヒットである。2017年に続篇『図書館の魔女 鳥の伝言』も出たし、高田はこのままファンタジーに行くのだろうな、と私は漠然と思っていた。別にミステリーにこだわる必要はないのだし、『図書館の魔女』は累計で数十万部も出たヒット作である。自分はあまりファンタジーは得意ではないが、そっちの世界でがんばってください、と思っていた矢先に別の版元から『まほり』が出たのである。帯によれば「初の長篇民俗学ミステリ」とあるではないか。おおっ。
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文学部出身者が随喜の涙を流す史料読解ミステリー


というわけで発売日を待って早速読んだ。『まほり』という題名もそうなのだが、物語の内容についての情報量が少ない小説である。はじめに殺人事件が起きて探偵役が現れて、というような定型の展開を予想して読むと肩透かしを食らう。

二つの発端が準備されている。一つは長谷川淳という少年を視点人物にしたものだ。淳の妹に喘息の持病があったため、長谷川家は山奥の集落に移住してきた。都会者の淳少年はなかなか地元になじめずにいるのだが、ある日沢を一人で登っているときに不思議なものを見る。自分と同じ歳くらいの、赤い着物の少女である。山奥に突然出現したように見える少女は、後を追ってきた村人に連れられてどこかに去っていった。

もう一つは、社会学を専攻し、院試に臨もうとしている大学生・勝山裕である。彼はふだんつきあいのない学生たちとの飲み会に参加した際、奇妙な説話を聞かされた。寂れた祠や岩場などに二重丸の印が書かれているというものである。さらに加藤という学生は、直接の知り合いがその二重丸のお札にまつわる怖い体験をしたという。その友達の住んでいる集落近くには、やたらとその札が貼ってある場所があるというのだ。興味を持った裕は、加藤に頼んでその友人・田淵佳奈人に会わせてもらい、直接話を聞いた。二重丸の札が貼られていた場所が、こんぴらさまと呼ばれる社の近くに集中していることを確認した裕は、自ら調査に乗り出していく。

この裕の視点が主となり、淳少年のパートが絡む形で物語の前半は進行していく。文献を調べるために入った図書館で、裕は司書の見習いとして働いていた幼馴染の飯山香織と再会し、彼女の助けを借りながら件のこんぴらさまに関する資料を探すのである。こんぴらには金毘羅、金比羅、琴平などの字が宛てられ、全国に分布するごくありふれた神社の名だ。それがどこにあるかを同定するだけでもたいへんな手間だが、香織が知人の史学家を紹介してくれたことによって一気に調べが進むのである。

裕は社会学専攻なので、山のような史料から有効な情報を発見するという作業については素人だ。ここが『まほり』という小説のポイントで、歴史民俗博物館に勤めて中世近世の大衆史を専門とする朝倉、郷土資料館員で神社の由来研究を行っている古賀という二人の専門家が裕に手ほどきをする役目として登場する。二人の専門を聞いただけで大学時代に歴史関連の専攻だったひとは、おっ、と思うかもしれない。歴史学者といっても、二人のアプローチはまったく逆だからである。

歴史とは「書かれたこと」の記録だが、文書として残っていない「書かれなかったこと」は歴史学の対象にならないと考えるのが基本である。だが朝倉は言う。

「いかに書かれているか、いかに語られているかっていうことに欺瞞を嗅ぎ出されば、隠された真実が暴き出せる。本当の歴史、とまでは言いませんが、もう一つの歴史があったことが暴き出せるわけです。『歴史』は真実の記録であるよりむしろ、往々にして真実の隠蔽の記録、改竄の記録でもあるわけです。そこに隠蔽や改竄が起こったことを、その動機とともに示すことがもし出来るならば、同じ実証的史料が、その文言に反する『歴史的証言』を伝えてくれることになります」

それに対して古賀は「なまじな判断で史料そのものや本文の記述に非を打っていったら、史料とすべきものの目録が、もう恣意的なものになっちゃう」と考える歴史家だ。だからこう言う。

「[……]史料の中の真偽を切り分けるなんて……それは究極的には無理な話なんでね。でも、だからってここは不純物が多いからって、鉱脈を捨てていいってことにはならないでしょ。純鉄だけ彫り出そうというなら隕石が落ちるのでも待ってないととね。そりゃあ何万年でも待ってて落ちてくるもんなら」

ゆえにすべての史料を保持することが大事だ、というのである。
二人の教えを受けながら裕は社の碑文や古文書などから道標となる資料を探し出し、少しずつ目的の場所、知るべき真理へと近づいていく。謎へのアプローチをするのが推理だとすれば、本書の主たる推理は漢文の白文(書き下しではない漢字だけの原文)を読むことによって行われる。もちろん読者にそれを強いるのではなくて、裕が他の助けを借りながら解読していくわけである。ちょっと前に「漢文の授業なんて今時必要なのか」というツイートが話題になったことがあったが、必要なのである。『まほろ』という小説のためには必要なのだ。漢文が必要ないなんて思っている人はみんな『まほろ』を読んだほうがいい。

知の体系に近づいていく悦びこそが本書の根幹


もちろんミステリーなので、謎解きの瞬間がある。全18章のうち14番目に「まほり」の題名がつけられている。ここで明かされる真相は意外なものだが、ずるをしてこの章だけ読んでもまったくおもしろくないはずだ。そこに至るまでの紆余曲折、裕と香織が協力して仮説検証を行い、淳が持ち寄った情報によって新たな視界が拓けて、といった段階を踏んできて、初めてその重さを感じることができるのである。

そこまでのスクラップ・アンド・ビルドはすべて「まほり」の異常性を読者に実感させるためのものであり、論理の積み上げによって感情を揺さぶるという技巧を作者は選択している。
主人公の裕は歴史・民俗学の初心者として基礎の基礎を学ぶのだが、それを追体験できるのも本書の魅力であろう。特に私が興奮したのは、裕がある史料について「逆転」があることに気づくくだりだ。私的なことを書いて恐縮だが、私は大学時代、中世史に少しだけ首を突っ込んでいて、田畑の売買証文を読んだりしていた。利害の絡んだ生臭い文章には、ときおり自身の正当性を主張しようとして、ねじくれた論理が開陳されるものである。飛躍や逆転というものがつきものになっており、そうした中世人の心理が文章から透けて見えるときに、歴史を学んでいて良かったと感じる瞬間があった。無味乾燥な過去の記録を調べているわけではなく、そこには人間学の基本というべきものがある。『まほり』を読んで、そうした大学時代の感慨が蘇ってくるのを感じた。
この感覚を少しでも多くの人に体験してもらいたい。人文科学が好きな人、人文科学に関心がない人、どっちにも読んでもらいたいな。それがどんなに楽しいか、高田大介がものすごくおもしろい小説で教えてくれるよ。もうミステリーかどうかなんてどうでもいいや。この本をぜひ読んで、脳が活性化する楽しさを味わってください。
(杉江松恋 タイトルデザイン/まつもとりえこ)
※おまけ動画「ポッケに小さな小説を」素敵な短篇を探す旅