同じ時間を過ごした関係でも、その心の中の残像はそれぞれに異なる。それでも懐かしいと思える。

同じ思いもすれ違いも、時間を経たからこそ向き合える。死を迎える元生徒とその元教師の関係もまた。信頼しあいながらすれ違う時間を過ごしていました。重松清さんの原作映画化の「泣くな赤鬼」を見てきました。


再開のシーンからずっとあった二人の距離感

10年も前に野球部の顧問と新入生という関係から始まった二人でした。

教師は生徒を心配し、あらゆる方法でその成長を支えようとします。生徒はまたその思いを感じながらも教師との距離感が埋められないままで、レギュラーを嘱望されながらかみ合わない歯車のようにすれ違う。

やがて彼が野球を諦める頃には強豪校との呼び声がかかるまでの成長をしながらも、活躍の場を得ないまま彼は、高校までも退学することになります。

冒頭の再開のシーンからずっと二人には距離感が感じられました。普通の教師と生徒という関係とは違ってお互いに少し感情を入れすぎていたからなのでしょう、それでも生徒は先生を頼るように話します。教師は彼のことを忘れるわけもないのに、再開に歓喜の表情はありませんでした。


思い出したくないことの方が、自分史を豊かにする

思い出は振り返ることで、いくらでも輝かせることができる。言葉にして誰かに語ってこそ自分自身の人生はさらに輝くことができるのだということ。

実はこれも終活の大切な考え方で、過去の自分史を積極的に考えることの大切さは、ただ単に楽しい思い出を思い出すことよりも、むしろこの映画のように自分自身では積極的に思い出したくないようなことの方が、その後のこれからの自分史を豊かにするための一つと方法として有効なようです。

振り返り過去の自分と向き合って見ることを、お勧めしています。

癌に侵された元教え子を見舞った教師は、その時に彼から問いかけられます。「先生、生徒の葬式とか出たことある?悲しかった」教師は「悲しかったし、辛かったよ」そう応えるのですが、元生徒の伺うような表情は自分が亡くなったときの先生の様子をシミュレーションしているようでもありました。そのときの先生の言葉こそが、高校生当時の自分自身はこの先生にどう思われていたのかを探っているようでもありました。

見所が大変多い作品でもあるのですが、是非このシーンにおいて「私は?・・・」と、考えてみてください。身の回りを振り返り大切な人を失った時に私はどうなるのだろうか、もう一方では、私が亡くなった時に周りはどんなことを思うのだろうか、この思いは不安な時にこそ確かめたくなるもののような気がします。

そしてその先にこの人との関係をより良いものにしてゆこうと思えるに違いありません。


できればたくさん話していた方がいいな

ドラマでは、彼のために当て馬のように使われた生徒が1人登場します。サードというポジションを競い合うことで、彼のもう一つの心の成長を期待した教師でしたが、その相手役に選ばれた生徒の気持ちもドラマでは重要な役割でした。

なかなかすべての人がうまくゆくことはないのです。競い合うことを使命とされ高校野球を過ごした彼もまた。当時を思うだけではなかなか消化しきれなかった思いを背負い生きてきました。その彼にもまた、教師やライバルとの再会の機会を経て、心の穴を埋め、過去を成長のための自分史と変えてゆくことができたようです。

できればたくさん話していた方がいいな、話してゆくうちに気が付く事や解らなかった思いが通じることがあるから。寡黙なままでお互い解りあえることはそう簡単なことではない。臨終の際に交わされた二人の会話は、過去の不足していた言葉を埋めるようなシーンでもありました。ドラマに浸ってしっかりと、涙で心の浄化ができそうなそんな映画でした。


今回ご紹介した映画『泣くな赤鬼』

出演:堤 真一、柳楽優弥、川栄李奈
原作:『せんせい。』所収「泣くな赤鬼」(新潮文庫刊): 重松清
監督: 兼重淳

この記事を書いた人

尾上正幸

(終活映画・ナビゲーター / 自分史活用推進協議会認定自分史アドバイザー / 株式会社東京葬祭取締役部長)

葬儀社に勤務する傍ら、終活ブーム以前よりエンディングノート活用や、後悔をしないための葬儀の知識などの講演を行う。終活の意義を、「自分自身の力になるためのライフデザイン」と再定義し、そのヒントは自分史にありと、終活関連、自分史関連の講演活動を積極的に展開。

講演では終活映画・ナビゲーターとして、終活に関連する映画の紹介も必ず行っている。

著書:『実践エンディングノート』(共同通信社 2010年)、『本当に役立つ終活50問50答』(翔泳社 2015)

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