1960年代後半に一世を風靡したグループサウンズ(GS)。わずか5年ほどの短いブームだったが、日本のポップス史を語るには欠かせない存在でもある。


1951年生まれのミュージシャンの近田春夫が自身の記憶とともにGSを論じた「グループサウンズ」(文春新書)を2月17日に刊行した。若き日に当時のブームを体感した近田による、経験者ならではのGS論や昭和の音楽文化、そして古稀を過ぎた近田が今GSを語る意味とは。半世紀前を知る業界人からのリアルな証言を聞いた。(前後編の前編)

――1951(昭和26)年生まれの近田さんは、GSブームが始まった1965(昭和40)年頃は中高生でした。まず、少年時代の近田さんが聴いていた音楽をお聞きします。

僕が最初に熱中した音楽はアメリカンポップス、洋楽を日本語でカバーしたいわゆるオールディーズの曲たちでした。もう小学校に上がった頃から聴いていて…昭和30年代はまだは終戦から間もない時期で、アメリカという国の文化がすごく輝いて見えた。日本の歌謡曲も流れていたけど、やはりアメリカの音楽はドリーミーで憧れで、それが僕の洋楽好きの原点になった。

60年代も民放各局の歌番組でも洋楽の日本語カバーをよく流していたんですよ。フジテレビなら『ザ・ヒットパレード』に『明治屋マイマイショー』、TBSの『パント・ポップショー』などですね。僕の家はテレビがモノクロの時代から家にあったので、大相撲やプロ野球やプロレスの時間になると隣近所の人がテレビの中継を見に来たりしていました。

――牧歌的というか、典型的なテレビ黎明期の時代の風景ですね。


そこから、60年代中盤になってくるとエレキブームが始まるんです。僕がエレキを初めて知ったのがアストロノウツというアメリカのバンドの『太陽の彼方に』(1964)だった。これはインストゥルメンタルながら日本でも大ヒットした曲なんだけど、まずどんな楽器なのかもわからないまま、音の官能的な魅力にシビれてしまった記憶があります。

この年にはアニマルズというイギリスのバンドの『悲しき願い』を尾藤イサオさんとブルー・コメッツがカバーしてヒットしていて、アストロノウツとアニマルズのヒットはGSの先駆けのような現象でしたね。

ビートルズはエレキよりもフォークに近いし、GSのグループもほとんどカバーしていないから、実質的にGSブームにほとんど影響はなかったと僕は思います。

――ビートルズ来日(1966)ではなく、1964(昭和39)年頃から始まったエレキブームがGSの先鞭をつけた、と。

僕だけでなくエレキは多くの日本人には初めてで、その鮮烈さからエレキブームが起きてすぐに1965(昭和40)年の『勝抜きエレキ合戦』(フジテレビ)のようにテレビがエレキバンドを売り出そうと仕掛けていきました。

――いわゆるオーディション番組が早くも現れるんですね。

『勝抜きエレキ合戦』に優勝してブレイクしたのが初期GSのザ・サベージというバンドなんです。寺尾聰さんがベースとボーカルを務めていたバンドなんだけど、イギリスのザ・シャドウズのようなインストの音楽を演奏していたから同じようなエレキのインストでデビューするのかと思ったら、デビュー曲の『いつまでもいつまでも』からして歌ありのフォークロックのような曲で、なんだこりゃ?と思っちゃった(笑)。
この、洋楽に憧れてバンドを組んでいたはずのGSの曲が次第に歌謡曲っぽくなっていく…というのはまさにGSの歴史そのものなんですね。その度にがっかりさせられたりもしました(笑)。
そちらの方がヒットしたのは確かなんですけどね。テレビの影響もあったし。

――洋楽好きな近田さんとしては、そうっいったGSのガラパゴス化がもどかしかったようですね。

僕はアストロノウツやアニマルズのような音楽が好きで、ブームの真っただ中で十代を過ごしたから、エレキブームで生まれたGSも世界に発信できる洋楽を作ってくれるかなという期待がありました。

でも実際は僕のような洋楽好きな若者よりも、言ってみればミーハー層をリスナーに取り込んで延命しようとする。オックスがアイドル的人気を獲得して、「失神」なんてセンセーショナルな演出を巻き起こしたのも、既に衰退期に入っていたGSの延命策だったんじゃないでしょうか。

でもそこで生まれたGSの曲たちも僕は好きだし、歌謡曲という文化の吸引力もすごい。歌謡曲のサウンドだって丸々日本的なものでできている訳ではなくて、戦前戦後に入ってきた欧米のポピュラー音楽にならっている。そこに日本的な情念がこもったのが、歌謡曲の文化なんだと思うんです。

――ー「情念」というと?

戦争に負けて、しかも敗戦を終戦と言わざるを得なかった鬱屈した劣等感のようなものが歌に込められるようになったと感じるんです。僕の個人的な印象ですが、戦後すぐの、例えば美空ひばりさんが歌っていたような流行歌にはあまり暗さは感じないのに、昭和30年代になると日本人の「もののあわれ」の琴線に響くような曲が増えてくると思っていて。それは、僕より一回りくらい年上、昭和一桁や10年代生まれの作り手が活躍し始めたことを無関係ではないと思います。


――ー戦争に負けた歴史と、日本の大衆音楽の歴史は無関係ではない、ということですね。

彼ら作曲家・作詞家は日本が戦争に負けて、世の中がガラリと変わった時代を多感な年頃に見てきたから、その頃の暗い感情を無意識に作品に込めざるを得なかったのかなと思います。GSの作り手にも同じことが言えて、欧米に憧れつつも欧米になりきれなかったのかなと。K-POPにはそういった要素は感じないから、日本特有の現象なのかなと考えています。

――ーそれでもGSのアーティストはその後も邦楽界で活躍した人が多いですね。堺正章さん、沢田研二さん、萩原健一さんなど…

テレビでスターになった人が多いから、その後もテレビで活躍する人が多かった。作曲家にも世代交代があって、すぎやまこういちさんや筒美京平さん、鈴木邦彦さんらが台頭したし、阿久悠さんもザ・モップスの曲が初めての大ヒットなんです。 あの頃GSに関わったテレビマンやバンドマンが夢見た、世界に通用するロックを日本でも作るといった理想は実現しなかったけれど、ガチガチの洋楽らしさがないのがかえっていいんですよ。町のあんちゃんたちが、格好いいから音楽やろうぜって集まって大きくなったのがGS なんだし、わざわざ芸大や音大出てまでやるようなものでもない(笑)

――ーそこからブームになって、21世紀になっても再結成があったりと、短いながらもインパクトを残しましたね。

瞳みのるさん(ザ・タイガースのメンバー)によればタイガースだってもともとは麻雀仲間だったそうだし、本当、怖いもの知らずの時代だったんです。地方でも町のスピーカーでエレキの曲が聴けて、演者の顔が分からなくてもなんだか格好いいなと思っちゃう。聴く側も作る側も、いい意味で素人っぽさが抜けない時代だったと思います。


【続きを読む】近田春夫が今、グループサウンズを語る理由 憧れ続けた原体験とベストの1曲は?

▽近田春夫(ちかだ はるお)
1951年東京都生れ。音楽家、音楽評論家。ロック・ヒップホップ・トランスなど、時代の最先端のジャンルで創作を続ける。またタレント、ラジオDJとしても活躍中。著書に『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』『グループサウンズ』など。
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