「#ネオ昭和」を発信するインフルエンサーでありアーティストの阪田マリン。2000年生まれで、昭和を生きたことのない彼女に、昭和に目覚めるに至ったきっかけと、昭和の魅力を発信し続ける真意を聞いた。


【写真】阪田マリンの昭和感じるショット&撮りおろしカット【13点】

21世紀を目の前に控えた西暦2000年に、阪田は誕生した。彼女が昭和に出会うまでは、あの時代をどのように見ていたのか?

「遠い、ものすごくとお~い歴史のように感じていました。社会の授業で習う以上のものはなく、その時代の文化も全く知らなくて。父と母が青春を過ごした時代以上の知識ぐらいしかなかったですね」

だが中学2年時、偶然祖母宅にあったレコードプレイヤーが目に入った。かつて父が愛聴していたチェッカーズ『Song for U.S.A.』の7インチに針を落とし音が鳴った瞬間、体に稲妻が走ったという。

「鳥肌が立ちました、私が生まれる何十年も前にこんなステキな音楽があったんだ!って。
しかも、レコードをかけて、曲が始まるまでの間と“プツップツッ”というノイズから、曲が始まるまでのユッタリした間が、ものもすごく新しく感じて。

CDもYouTubeも、再生ボタンを押せばすぐに曲が始まることに慣れていた私には、この“間”も魅力に映ったんです。『Song for U.S.A.』に出会わなければ、今の私はここにいなかっただろうなと今でも思います」

阪田の受けた衝撃と感動に真っ先に反応したのは父だった。

「チェッカーズのレコードが好き!と伝えたら、『俺が学生の頃、チェッカーズのコピーバンドを組んでたんや』と過去の話をしてくれて。そのまま、日本橋のレコードショップに連れて行ってくれたんです。色々と買い漁る私に驚いて、その帰り道、『次は角川映画を観てみい』って、その勢いのままレンタルショップに行ったんです。
その間も、父はとにかくノリノリで昭和文化について教えてくれました。やっぱ自分が生きた時代を娘が好きと言ってくれたのが、嬉しかったんでしょうね(笑)。

父から色々教わりながら、『セーラー服と機関銃』を借りて。観てみたら、もう最高! メチャカワイイ人がなんでマシンガン撃つん!?という不思議な世界観におもろい世界やなあってハマって。長い休みに入ると、レンタルショップに一人通っては、1日1本角川映画を観るという生活を送るようになったんです」

青春ものから犯罪ものまで、独自の世界観が展開される内容にも惹かれつつ、中学生の阪田の目を惹いたのは、登場人物の周りを彩るインテリアや車など当時の文化だった。

「ピンク電話を見たとき、『こんな可愛い電話使ってたん!?』ってまず驚いて。
それ以外を見ると、冷蔵庫も形が面白いし車も可愛い。ファッションもメッチャええやん!と、映る全てが新鮮で刺激的に映ったんです。同じ人間で同じような生活を送っているのに、私が普段目にしたものと全く違うもので溢れていて。まるで異世界を見ているかのような感覚が、すごく面白く思ったんです」

ひたすら独学で掘り下げていくうちに、気づくと洋服からライフスタイルまでも昭和に染まっていった。高校に入ると周囲に昭和好きを公言。一緒に面白がってくれる人はいつつも、特異な目で見られる方が多かったという。


「高校時代は、『ビー・バップ・ハイスクール』や『湘南爆走族』のようなヤンキー漫画にハマり、カバンに『夜露死苦!』や『矢沢永吉』って書いていたんです。ある日、普通に登校していたら、別のクラスの子三人とすれ違ったところ、『あの子やで、噂の変わりもんって』と話しているのが耳に入ってしまったんです。

『なんで理解されないん!』って悲しくなって、そこから人とすれ違うときは、書いてある面を見られないように裏側にして、一人になったときに表にしてヤンキー気分を味わうという、コソコソ隠れながらの昭和ヤンキー活動を送っていました(苦笑)」

同窓生ならまだしも、大人にも理解は得られなかった。

「スケバンみたいにしようと夏服・冬服のスカート二枚繋げて長くしたら、先生から怒られてしまって。『短いと怒るのに、長くしても怒るのはなぜですか?』と聞いたら、『ふざけんな!!』ってさらに怒られて(笑)。まあ、私の屁理屈が悪いんですが、『こんなつまんない時代、もうええわ!』と、一時期は投げやりになっていました」

しかしここで折れることはなく、さらに情熱が燃え上がる。


「逆に全部見せてやる!なんなら私一人が昭和を生きているんだと思えばいいんだ!って、そこからは常に、『この世界で、自分だけは昭和の人間や!』と、振舞おうと心にきめたんです」

カバンをひっくり返すことは止めた。今まで以上に堂々と「昭和が好き!」と発信し続けると、理解する友人も増えてきた。

「高校3年生の文化祭、出し物でクラスの女子みんなで踊ることになったんです。周りが韓国アイドルの曲をやろう!と盛り上がる中、私はCOMPLEXさんの『BE MY BABY』で踊ろう!と提案したんです。『絶対にイヤ!』と反対されたのですが駄々をこねて(笑)。そうしたら、『練習でなら一度だけ夢叶えたる』と、私が振り付けしたものをみんなで踊ってくれたんですよ。


この頃、クラスのみんなは『昭和、いいよなあ』と、私の趣味を温かく見守ってくれるだけでなく一緒に楽しんでくれて。当然“変な子”扱いの子はいましたが、もうそんな目線なんかどうでもいい!って思うようになっていました。好きなものを好きと言えるようになってから、もう毎日が楽しくてしょうがない。誰になんと言われようと、自分にウソをつかず好きなことをしないとやっぱダメですね」

昭和の虜になって10年が経つ。阪田にとっての昭和愛はもはや楽しむだけにとどまらず、「#ネオ昭和」を通して昭和文化の寄与について真剣に考えている。

「今は昭和をブームとしてみなさん楽しんでいますよね。けどブームって絶対に終わってしまうから、それが一番怖い……。何事も盛り上がるのは良いけれど、消費されつくしたら、また昭和をただの“古いもの”として見て、これまでの盛り上がり全部を無かったかのように扱うんだろうなって。

純喫茶に銭湯と昭和のものが消えていく中、今の流れが一過性のもので終わってしまうのはすごく寂しいし怖い。いつまでも“昭和”という時代・文化を残していくために、私にできることは何でもやりたいなと常に考えています」

昨年以上に「#ネオ昭和」を広めるべく、「今年は種を蒔く年」とSNSに綴った。さらに、「#ネオ昭和」を芽吹かせるために、この先どんな種を蒔こうとしているのか?

「昨年は、たくさんのチャンスをいただいたからこそ『もっと頑張らな!』と焦りすぎて、冷静に周りを見られない瞬間があったんです。今年は昨年から続く歌やラジオなどのメディア活動を、さらに深めるための日々にしたい。SNSの発信が今はメインですが、それだけでは中々続かないと思います。

私は昭和を現代に根付かせたいからこそ、この活動をずっと続けたいんです。そのために新しい昭和歌謡音源を出したりバラエティやラジオでの活動を通じて発信し、『#ネオ昭和』をレベルアップさせていくことが、今一番の目標ですね」

(取材・文/田口俊輔)