さて、市谷の杜 本と活字館「明朝体展」レポート、前回は入口のあいさつ文パネルと最初の展示台の紹介だけで終わってしまいました。いよいよ具体的な展示内容を見ていきましょう。

天井から床まで、壁面2面を使った巨大年表

天井からカラフルな文字(全部明朝体!)が所狭しと吊り下げられた展示室に入ると、いくつかの展示台。そして左側の壁面には、天井から床までびっしりと情報の詰まった、巨大な年表が目に入ります。

これは2025年を最新として、現代から1868年(明治元年)までをさかのぼる年表になっています。非常にマニアックなようですが、この年表が実は明朝体展のメインの展示物なのだと、企画展担当の佐々木愛さん(市谷の杜 本と活字館)は言います。

「明治に生まれ、日本で約160年の歴史がある明朝体のことが、意外と知られていない。さらに、近年ではどのような明朝体がリリースされているのかを私自身、把握できていませんでした。なので、年表のかたちで改めて明朝体をおさらいしてみたら、いま明朝体を使っている人たちにも役立つのではないかなと思ったんです」

モノだけで展示する方法もありましたが、佐々木さんは年表こそが大事だと考えて、つくりあげたのだそうです(ちなみに、この明朝体年表の作成は、筆者もお手伝いしました。大変でした……)。
時代と技術の変遷を可視化

年表は年号のほか、上下が4段に分かれており、小さく入っている上の3段は「世の中の出来事」「企業」「書体・印刷関連技術」となっています。そして4段目、一番幅をとって大きく入っているのが「書体リリース年」。つまり、何年にどの書体がリリースされたのかがわかる年表になっています。

すこし離れたところから見てみると、「書体リリース年」の欄は3色に分かれて、グラデーションを描くように色が切り替わっていることがわかります。
紺が「デジタルフォント」、オレンジが「写植(写真植字)」、緑が活版印刷で用いる「活字」の書体を表しています。

それをふまえてもう一度見ると、デジタルフォントの多さに気がつきます。紺色の部分は文字がみっしり入っている。それだけ多くの明朝体がつくられているということです。写植は期間が短いし、少なく見える。活字もデジタルに比べると少ない。

先ほど「グラデーションを描くように色が切り替わっている」と書きましたが、これは、デジタルフォント、写植、活字という技術の変遷が、ある時期からスパッと一斉に切り替わったのではなく、同時並行して存在しながら、徐々に切り替わっていったことを示しています。

また、活字の時代、1930年代後半から1950年ごろにかけて、年表がやけに白いことにも気がつきます。白い、つまり、新しい活字がつくられなかったということ。この時期になにが起きていたのでしょうか。

……戦争です。

日中戦争から第二次世界大戦、そして終戦後数年までは、新しい活字書体をつくるどころか、活字も印刷機も金属として供出された……。
年表にそのことが明記されているわけではありませんが(世の中の出来事欄に戦争自体の記述はあります)、こうして年表で見ると、そんなことも読み取れるのです。
何度も登場する明朝体がある!?

さて、年表の細部を見ていきましょう。

2025年からスタートしている年表の先頭に記載されているのは、「凝明朝体」(justfont)や筑紫ヴィンテージ明朝 RT(フォントワークス)と並んで「本蘭明朝 M」「大蘭明朝」(写研・モリサワ)といった書体。つぎの2024年には「石井明朝 L/R/M/B」、「石井明朝オールドスタイルかな L/R/M/B」、「石井中明朝」「石井中明朝オードルスタイル大がな」(すべて写研・モリサワ)とあります。

すこし前の書体のことをご存じの方であれば、これらが「一番新しい書体」として年表に掲載されていることに、「あれ?」と思うのではないでしょうか。

これらはもともと、写植の時代に写研によってリリースされた書体で、一番古いものだと1933年(昭和8年)にできた明朝体です。それがこうして先頭に来ているのは、モリサワとの共同開発によって、2024年からデジタルフォントの「写研フォント」として生まれ変わったからなのです。

年表をよく見ていくと、同じように、時代ごとに何度も登場している書体があります。たとえば大日本印刷の「秀英体」は、明治時代から2000年代まで、繰り返し登場しています。

いま、私たちが文字を見るのは、どういう媒体ででしょうか。かつて代表的媒体として挙げられていた書籍や新聞に加え、いまはスマートフォンやパソコンなどの画面表示で見ることが格段に増えました。そうした印刷・表示技術や環境、時代による読み手の好みの変化、また、書体そのものの制作環境や技術の変化に書体が対応するには、それぞれの時代や技術に応じてデザインやデータを直す「改刻」が欠かせません。


活字から写植、そしてデジタルで使い続けられるためには、前時代の技術でつくられた文字をそのまま移植するのでは、きれいに印刷・表示されず、使いづらく読みづらいものになってしまうのです。

「長く使われ続けているフォントは、時代や技術の変化に応じて、だいたい20年ごとに改刻されていますね」
と佐々木さん。

同じ書体名が繰り返し登場していることに気づいたら、それは、その時代で使われやすいように「改刻」されたのかもしれない、と思いながら見てみてください。
17の明朝体を年表に図版パネルで展示

さて、年表にはいくつかの書体の図版が掲載され、クローズアップされています。これらは、どういった理由で選ばれたのでしょうか。

「まず、展示台で資料をご紹介しているものが9書体あるので、それらは年表でも図版パネルでご紹介しています。そして、それも含んで全部で17書体を図版パネルにしています。選定理由は、時代を代表するエポックメイキングな書体や、スタンダードを目指した書体、その時代で技術的に難しいことにチャレンジした書体といったことです」(佐々木さん)

たとえば1998年の小塚明朝(アドビ)は書体開発用のアプリケーションを開発し、デジタルフォントにおける新しい書体制作方法を模索し、確立しました。

2002年の游明朝体(字游工房)は、その10年前に 大日本スクリーン製造から依頼されてヒラギノ明朝体をつくった字游工房が、自社書体としてスタンダードを目指して制作した明朝体です。その後、游明朝体はMicrosoft Windowsに搭載されたので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

かつてスタンダードを目指した書体は、それゆえに、デザイン的な問題点などを指摘されることもあります。しかし佐々木さんは、「当たり前のものをつくることがどれだけ大変なことかに思いを馳せてほしい」と言います。


それがスタンダード、つまり当たり前になっており、明朝体の選択肢も大きく増えた今だからこそ言えるけれど、最初にスタンダードをつくることは、大変なことだったのです。
技術的に新しいことをやったものとしては、たとえば1983年、タイプバンクと日立製作所 デザイン研究所による「明朝体ビットマップフォント」もクローズアップされています。

ビットマップフォント(ドットフォント)は、各文字を正方形のドット(ピクセル)で表現したフォントです。方眼紙のマスを塗りつぶして文字を形作ったようなイメージです。データが軽いため、いまでも家電の小さな液晶画面の表示用や、電光掲示板などにも用いられています。タイプバンクはその先駆者でした。

「この図版パネルでは文字を小さく載せているので、ドットがあまり目立たずなめらかに見えていますが、ビットマップフォントは本来はドットで構成されるため、輪郭がカクカクしています。小さく表示するためには、文字の点画も省略しなくてはならないのに、ウロコはがんばって残すという」(佐々木さん)

たしかに、駅や電車の電光掲示板などの文字でも、ウロコがついている、つまり明朝体をよく見かけます。表示するために文字そのものは省略しても、それでも明朝体にしたいからウロコをつける……。日本人にとって明朝体がいかに特別な存在なのかを感じるエピソードです。
写植の時代は短い!? ……でも、実は

年表を見ていくと、写植の時代は一見、1950~90年ごろまでのわずか40年間ぐらいのように見えます。しかしさかのぼっていくと、だいぶ前、1929年(昭和4年)に「仮作明朝体」、1933年(昭和8年)に「石井中明朝OKS」があることに気がつきます。


写植機の発明そのものは、実は大正時代でした(1924年 / 大正13年)。初めて実用機を印刷会社に納入したのが1929年。写研の創業者・石井茂吉は、当初は文字のデザインはおろか、印刷のことも知らない素人でした。活字の「築地体12ポイント明朝」をベースにつくった最初の「仮作明朝体」は、写植の文字はどのようにデザインしたらよいのかを考えることなく制作されたため、導入先の印刷会社から大不評となり、石井茂吉は「写植で美しく文字が印字されるには、どのようなデザインにしたらよいのか」を考えます。

そうして完成したのが、1933年の「石井中明朝OKS」でした。当時、写植機用の明朝体はこれだけだったので、「石井」やウエイトを示す「中」、かなの種類を示す「OKS」などをつけることなく、「明朝体」としてリリースされました。

そこから、写研の明朝体の種類が増えるのは20年近く先のことです。この間に書体や機械の長い試行錯誤があったことがうかがえます。(くわしくはマイナビニュースでの筆者連載「写植機誕生物語〈石井茂吉と森澤信夫〉」をご覧ください)
○活字書体はちょっと注意

この年表では、写植に対して活字書体がたくさんリリースされているように見えるかもしれません。実は、写植とデジタルフォントは書体のリリース年のみですが、活字、特に明治から大正初期の書体については、見本帳刊行年が記載されています。この時期の活字は発売年をつかむのが難しいのですが、見本帳が刊行されたことを記せば、新発売かは別として、その活字書体がこの頃にはあったということがわかるためです。

活字の場合は、書体一揃えができあがらなくても見切り発車で発売広告を出すことがありました。
また、発売してからも文字を増やし続けたり、改刻を続けたりしている場合があります。リリース年がわかりづらいのは、このためです。

ですので、「リリースされた書体数」という意味では、この年表では活字と、写植・デジタルフォントを単純に比較できないのは、注意が必要です。

年表は、明治元年から始まっています。これは、1969年 (明治2年)に上海・美華書館を退職したアメリカ人技師ウィリアム・ギャンブルが長崎に寄り、本木昌造らに電気銅メッキ法による母型製造方法(電胎法)と、その母型を用いて活字を鋳造し、印刷する活版印刷術を伝えたところから、「活字としての明朝体」の日本での歴史が始まっているからなのです。年表の始まりをつぶさに見ていくと、日本で活版印刷がどんなふうに広まっていったかを感じることができます。
ひとりひとりの「明朝体と私」

年表を見始めたとき、佐々木さんは「2000年代にUnicodeが普及するまで、アジア圏の膨大な文字が『豆腐(□□□)』で表示されないための長い戦いがあった」と、熱く語ってくれました。

「印刷も表示もされない文字は、ないと同じだった。だからそれを表示させるために、デザイン的な書体の歴史とはまた別の流れで、GT明朝体やIPA明朝、平成明朝体など、インフラとしての明朝体の取り組みがあり、それが2017年、GoogleとアドビによるオープンソースのPan-CJKフォント(東アジアで用いられる4つの言語=中国語簡体字、中国語繁体字、日本語、韓国語をサポート)源ノ明朝につながっていったんです」

佐々木さんは、かつて大日本印刷が2005年から丸7年をかけ、「平成の大改刻」と称して秀英体のOpenTypeフォント化を行なったときに、秀英体開発室でその開発にたずさわってきた人なのです。つまり佐々木さん自身がその長い戦いに直面してきたからこそ、熱く語ってくれたのでしょう。

一方で、取材に一緒に行った編集部 Sさんは、「私はエヴァンゲリオン世代なので」と、思い入れのある書体として1994年にリリースされた「マティス」(フォントワークス)を指さしました。

筆者の生まれた年(1971年)は、タイポスやナールの登場で「新書体ブーム」が起きたころなのですが、明朝体としては1960~70年ごろにかけて、活字書体の写植への移植が盛んに行なわれていた時代です。就職したころ(1994年)にはやっとヒラギノ明朝体が登場しますが、勤めていた印刷会社では、まだ写植の時代でした。

こんなふうに、この「明朝体年表」を見るだけで、ひとりひとりが「明朝体と私」の話ができる。だれもがきっと、その人だけの明朝体史を持っているのではないでしょうか。

……また長くなってしまいました。
次はいよいよ、展示台の紹介をしていきたいと思います。

(第3回に続く)

写真:杉浦志保(編集部)・雪 朱里

○【市谷の杜 本と活字館 企画展「明朝体」】

会期:2026年2月21日(土)~2026年5月31日(日)
監修:岡田一祐 (慶應義塾大学)
編集協力:雪 朱里
協力:翁秀梅、Hong Kong Open Printshop Limited、Monotype株式会社、株式会社SCREENグラフィックソリューションズ、アドビ株式会社、一般財団法人印刷図書館、株式会社イワタ、株式会社写研、株式会社モリサワ
展示デザイン:中沢仁美、大重頼士 (シービーケー)
グラフィック:大日本タイポ組合
主催:市谷の杜 本と活字館

●市谷の杜 本と活字館

東京都新宿区市谷加賀町1-1-1(大日本印刷)
開館時間:10:00~18:00休館:月曜・火曜 (祝日の場合は開館)

入場無料
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Instagram :@ichigaya_letterpress
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