2024/25シーズンの欧州リーグも大詰めとなり、プレミアリーグのリバプールやスコティッシュ・プレミアリーグのセルティックなどが優勝を決め、欧州カップ戦出場権争いや残留争いにも視線が注がれている。一方で、早くも来2025/26シーズンへ向けた人事も動きが活発化してきており、大物選手の移籍の噂も話題となる季節となった。
昨シーズンの移籍の目玉の1つは、フランス代表FWキリアン・エムバペのパリ・サンジェルマン(PSG)からレアル・マドリードへの移籍だろう。エムバペはマドリードでその期待に応える活躍を見せているものの、肝心のチームは無冠が現実味を帯びている。名選手を獲得したところで、必ずしもチームの好結果を保証するものではない現実を証明する形となってしまった。
ここではこれまでのサッカー史で大型移籍と呼ばれ、話題をさらったものの失敗に終わった世界的名選手を挙げ、その原因を考察したい。
そこに目を付けたのは、1993年のJリーグ創設に向け、大物外国人選手の補強を狙っていた名古屋グランパスだった。年俸・契約金合わせ総額15億円という契約で加入がほぼ内定していたが、コカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。
行き場をなくしたマラドーナだったが、FIFA(国際サッカー連盟)が介入するという異例の展開を見せ、1992年にラ・リーガのセビージャへ移籍。バルセロナ(1982-1984)で実績があったことや、当時の監督がかつてアルゼンチン代表を率い、1986年のワールドカップ(W杯)メキシコ大会で優勝に導いたカルロス・ビラルド監督(1992-1993)だったことで、再び活躍が期待された。
しかし、マラドーナのコンディションは全盛期とは比べ物にならないくらいに低下しており、かつての輝きを取り戻すことはなかった。セビージャでの戦術にもフィットせず、リーグ戦出場試合は26試合に止まり5得点に終わる。わずか1シーズンで、母国のニューウェルズ・オールドボーイズに移籍していき、マラドーナの欧州でのキャリアは終わりを告げた。
セビージャへの移籍は、マラドーナのキャリアの晩年を象徴する出来事として語られている。この1シーズンは、彼の偉大なキャリアにおける数少ない“汚点”とも言えるものだった。
さらに、1993年に加入したニューウェルズでも素行不良でわずか4か月で解雇され、所属クラブなしの状態で臨んだ1994年のW杯アメリカ大会では、ドーピング違反でFIFAから15か月間の出場停止処分を受けることになる。
キャリアの最後は1995年、14年ぶりにボカ・ジュニアーズ(1995-1997)へ復帰し、1997年、37歳の誕生日(10月30日)に現役引退を発表した。
その後、2010年のW杯南アフリカ大会ではアルゼンチン代表監督としてチームをベスト8に導いたかと思えば、私生活では薬物依存や不摂生による入院、報道陣への発砲事件などといったお騒がせエピソードを残し、2020年、60歳の若さでこの世を去った。
バルセロナ移籍初年度(1986/87)と2年目(1986/87)はそれぞれ21得点、20得点の結果を出し、期待に応える活躍を見せていたが、運命を暗転させる人物が監督に就任する。バルセロナのレジェンドとして数々のタイトルをもたらしたヨハン・クライフ(1988-1996、2016年死去)が指揮官として、本拠地カンプ・ノウに帰ってきたのだ。
クライフ監督は、流動的でパス中心のサッカーを志向。しかし、リネカーは典型的な点取り屋で、その“仕事場”はゴール前だ。リネカーは監督が求めるポジショニングやビルドアップへの関与に応えられなかった。そんなリネカーにクライフ監督は左ウイングのポジションを与えると、これにリネカーは怒り、さらにケガやコンディションの問題も発生し、出場機会を徐々に減らしていく。
それでも契約最終年の1988/89シーズン、UEFAカップウィナーズカップでは優勝に貢献。
リネカーは後日、スペインのサッカーと生活に適応する困難さを口にし、特にスペイン語の習得やバルセロナの文化への適応に苦労したと語っている。トッテナム移籍後の1989/90シーズン、いきなりイングランドリーグの得点王に輝き、復活をアピールしたリネカー。そして1992年、彼はJリーグ名古屋グランパスのエースとして、日本の地を踏むことになった。
バレンシアでは攻撃的MFとして自由度の高い役割をこなし、2年連続でのCL決勝進出(2000年、2001年)に貢献したが、ラツィオではスヴェン・ゴラン・エリクソン監督(1997-2001、2024年死去)や、ディノ・ゾフ監督(1990-1994、1996-1997、2001)が守備的な戦術を採る中で、明確な役割分担を求めるスタイルだったため、メンディエタの創造性や攻撃力は生かされなかった。
出場機会も限られ、本来のダイナミックなプレーは見られないまま、わずか1シーズンでバルセロナへ期限付き移籍。その後、プレミアリーグのミドルズブラ(2003-2008)でも目立った活躍はできず、キャリアは下降線を辿り、2008年の契約満了とともに、ひっそりと現役を引退した。
当時のラツィオは財政難にも直面し、チームの雰囲気も良くなかったという。スター選手が揃う中での競争も激しく、メンディエタはバレンシアで「怪物」と称されたテクニックを発揮できず、中心選手として定着できなかった。辛口のイタリアメディアも「セリエAでの典型的な大型移籍の失敗例」と評している。
金満で鳴らすオーナーのロマン・アブラモビッチ氏が熱望した移籍だったが、当時のジョゼ・モウリーニョ監督(現フェネルバフチェ)の戦術は、より組織的で守備的なアプローチを重視。シェフチェンコのスピードやゴール前の自由な動きは制限され、コートジボワール代表FWディディエ・ドログバのようなフィジカルを生かすストライカーが重宝された。
フィジカルコンタクトが求められるプレミアリーグのスタイルに苦しみ、本来の決定力を発揮できないシェフチェンコ。度重なるケガにも悩まされ、出場機会も思うように得られず、古巣ミランへの期限付き移籍(2008-2009)を経て、最終的には10年ぶりにディナモ・キーウ(2009-2012)へ復帰し、2012年に引退した。
シェフチェンコの移籍は、戦術的なミスマッチの典型例だ。ミランでは自由を与えられゴール前での決定力が生かされていたが、チェルシーでは守備のタスクを求められ彼の良さが消されてしまった。また、高額な移籍金がプレッシャーとなったという側面もあるだろう。同ポジションのライバルのドログバがキャリアの絶頂期にあったことも不運だった。
また、当時の英国メディアは、オーナーのアブラモビッチ氏とモウリーニョ監督の意見の対立がシェフチェンコの起用やチーム内での立場に悪影響を与えたとも報じている。
バルセロナでシャビ・エルナンデスやアンドレス・イニエスタ、セスク・ファブレガスが成長し台頭したことで、2001年、31歳にして初の海外挑戦を表明すると、イングランドやイタリアから多くのオファ―が届く。その中にはマンチェスター・ユナイテッドやリバプール、ミランやインテルといったビッグクラブも名を連ねていた。
そこからグアルディオラが選んだのは、セリエAでも“弱小”の部類に入るブレシアだ。その決め手は、イタリア代表主将として、1998年のW杯アメリカ大会で準優勝に導いたFWロベルト・バッジョの存在だった。セリエAに昇格した2000/01シーズンに8位という好成績を収めた上、バッジョとグアルディオラという“夢のホットライン”は、サッカーファンの胸を躍らせた。
しかし、フタを開けてみれば、グアルディオラのパフォーマンスは全盛期に及ばず、そのプレースタイルから“絶好のボールの奪いどころ”と狙われ、対戦相手から削られまくることになり、度重なる負傷にも悩まされた。バッジョという稀代のファンタジスタと、グアルディオラという才能豊かなプレーメーカーとの化学反応は失敗に終わり、ブレシアの2001/02シーズンは13位に低迷してしまう。
バルセロナのようなポゼッション重視のスタイルとは異なり、中盤の底から攻撃を組み立てるグアルディオラの能力が十分に生かされなかった。さらに不運が彼を襲う。ドーピング検査で陽性反応を示し、4か月の出場停止処分を受け、裁判でも有罪判決を受ける。本人は潔白を主張したが、彼の無実が確定したのは引退後の2009年のことだった。
半年間のローマへの期限付き移籍を挟んで、彼のイタリア挑戦は「失敗」の烙印を押されたまま、失意にうちにカタール(アル・アハリ・ドーハ/2003-2005)、メキシコ(ドラドス・シナロア/2005-2006)と渡り、2006年にひっそりと引退。輝かしいバルセロナ時代とは打って変わって、寂しいキャリアの晩年を送った。
しかし、翌2007年からバルセロナのBチームで指導者キャリアをスタートさせると、その才能が開花。
ブレシア、そしてローマでは選手として活躍出来なかったグアルディオラだが、その辛い経験をも糧にイタリアの戦術を学び、後の監督キャリアに生かしたとも考えられる。ブレシア移籍は期待されたほどの結果を残せなかったが、現在の姿を見れば、キャリア全体という意味では、この“しくじり”もまた重要だったと捉えることもできるだろう。
昨シーズンの移籍の目玉の1つは、フランス代表FWキリアン・エムバペのパリ・サンジェルマン(PSG)からレアル・マドリードへの移籍だろう。エムバペはマドリードでその期待に応える活躍を見せているものの、肝心のチームは無冠が現実味を帯びている。名選手を獲得したところで、必ずしもチームの好結果を保証するものではない現実を証明する形となってしまった。
ここではこれまでのサッカー史で大型移籍と呼ばれ、話題をさらったものの失敗に終わった世界的名選手を挙げ、その原因を考察したい。

ディエゴ・マラドーナのセビージャ移籍(1992-1993)
“神”と崇められたアルゼンチンのレジェンドMFディエゴ・マラドーナ(2020年死去)は、1984年にバルセロナからセリエAのナポリ(1984-1991)に移籍すると、1986-87シーズンにクラブ史上初のセリエA優勝、さらにコッパ・イタリアとの2冠を達成した。しかし1991年、度重なる問題行動や薬物疑惑により、イタリアサッカー連盟から15か月間の出場停止処分を受け、クラブからも追われてしまう。そこに目を付けたのは、1993年のJリーグ創設に向け、大物外国人選手の補強を狙っていた名古屋グランパスだった。年俸・契約金合わせ総額15億円という契約で加入がほぼ内定していたが、コカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。
行き場をなくしたマラドーナだったが、FIFA(国際サッカー連盟)が介入するという異例の展開を見せ、1992年にラ・リーガのセビージャへ移籍。バルセロナ(1982-1984)で実績があったことや、当時の監督がかつてアルゼンチン代表を率い、1986年のワールドカップ(W杯)メキシコ大会で優勝に導いたカルロス・ビラルド監督(1992-1993)だったことで、再び活躍が期待された。
しかし、マラドーナのコンディションは全盛期とは比べ物にならないくらいに低下しており、かつての輝きを取り戻すことはなかった。セビージャでの戦術にもフィットせず、リーグ戦出場試合は26試合に止まり5得点に終わる。わずか1シーズンで、母国のニューウェルズ・オールドボーイズに移籍していき、マラドーナの欧州でのキャリアは終わりを告げた。
セビージャへの移籍は、マラドーナのキャリアの晩年を象徴する出来事として語られている。この1シーズンは、彼の偉大なキャリアにおける数少ない“汚点”とも言えるものだった。
さらに、1993年に加入したニューウェルズでも素行不良でわずか4か月で解雇され、所属クラブなしの状態で臨んだ1994年のW杯アメリカ大会では、ドーピング違反でFIFAから15か月間の出場停止処分を受けることになる。
キャリアの最後は1995年、14年ぶりにボカ・ジュニアーズ(1995-1997)へ復帰し、1997年、37歳の誕生日(10月30日)に現役引退を発表した。
その後、2010年のW杯南アフリカ大会ではアルゼンチン代表監督としてチームをベスト8に導いたかと思えば、私生活では薬物依存や不摂生による入院、報道陣への発砲事件などといったお騒がせエピソードを残し、2020年、60歳の若さでこの世を去った。

ゲーリー・リネカーのバルセロナ移籍(1986-1989)
プレミアリーグ創設(1992年)前のイングランドリーグで、レスター・シティ(1978-1985)でもエバートン(1985-1986)でも得点王を獲得し、1986年に期待を一身に背負いバルセロナ移籍を果たした元イングランド代表FWゲーリー・リネカー(1994年引退)。バルセロナ移籍初年度(1986/87)と2年目(1986/87)はそれぞれ21得点、20得点の結果を出し、期待に応える活躍を見せていたが、運命を暗転させる人物が監督に就任する。バルセロナのレジェンドとして数々のタイトルをもたらしたヨハン・クライフ(1988-1996、2016年死去)が指揮官として、本拠地カンプ・ノウに帰ってきたのだ。
クライフ監督は、流動的でパス中心のサッカーを志向。しかし、リネカーは典型的な点取り屋で、その“仕事場”はゴール前だ。リネカーは監督が求めるポジショニングやビルドアップへの関与に応えられなかった。そんなリネカーにクライフ監督は左ウイングのポジションを与えると、これにリネカーは怒り、さらにケガやコンディションの問題も発生し、出場機会を徐々に減らしていく。
それでも契約最終年の1988/89シーズン、UEFAカップウィナーズカップでは優勝に貢献。
このタイトルを置き土産にスペインを去り、トッテナム・ホットスパー(1989-1992)に移籍した。
リネカーは後日、スペインのサッカーと生活に適応する困難さを口にし、特にスペイン語の習得やバルセロナの文化への適応に苦労したと語っている。トッテナム移籍後の1989/90シーズン、いきなりイングランドリーグの得点王に輝き、復活をアピールしたリネカー。そして1992年、彼はJリーグ名古屋グランパスのエースとして、日本の地を踏むことになった。

ガイスカ・メンディエタのラツィオ移籍(2001-2002)
ラ・リーガのバレンシア(1993-2001)では主将を務め、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)でチームを準優勝に導くなど、スペインを代表するMFだったガイスカ・メンディエタは、2001年に移籍金約4,800万ユーロ(約90億円)でラツィオへ移籍。バレンシアでは攻撃的MFとして自由度の高い役割をこなし、2年連続でのCL決勝進出(2000年、2001年)に貢献したが、ラツィオではスヴェン・ゴラン・エリクソン監督(1997-2001、2024年死去)や、ディノ・ゾフ監督(1990-1994、1996-1997、2001)が守備的な戦術を採る中で、明確な役割分担を求めるスタイルだったため、メンディエタの創造性や攻撃力は生かされなかった。
出場機会も限られ、本来のダイナミックなプレーは見られないまま、わずか1シーズンでバルセロナへ期限付き移籍。その後、プレミアリーグのミドルズブラ(2003-2008)でも目立った活躍はできず、キャリアは下降線を辿り、2008年の契約満了とともに、ひっそりと現役を引退した。
当時のラツィオは財政難にも直面し、チームの雰囲気も良くなかったという。スター選手が揃う中での競争も激しく、メンディエタはバレンシアで「怪物」と称されたテクニックを発揮できず、中心選手として定着できなかった。辛口のイタリアメディアも「セリエAでの典型的な大型移籍の失敗例」と評している。

アンドリー・シェフチェンコのチェルシー移籍(2006-2009)
世界一のストライカーとして名を馳せていた元ウクライナ代表FWアンドリー・シェフチェンコ(2012年引退)。ウクライナのディナモ・キーウ(1994-1999)から移籍したセリエAのミラン(1999-2006、2008-2009)では、加入初年度(1999-2000)にリーグ得点王に輝き、バロンドール(世界年間最優秀選手)も受賞。セリエA通算173ゴール、2度のCL制覇という輝かしい実績を誇り、2006年に移籍金約3,000万ポンド(当時約56億円)でチェルシーへ移籍した。金満で鳴らすオーナーのロマン・アブラモビッチ氏が熱望した移籍だったが、当時のジョゼ・モウリーニョ監督(現フェネルバフチェ)の戦術は、より組織的で守備的なアプローチを重視。シェフチェンコのスピードやゴール前の自由な動きは制限され、コートジボワール代表FWディディエ・ドログバのようなフィジカルを生かすストライカーが重宝された。
フィジカルコンタクトが求められるプレミアリーグのスタイルに苦しみ、本来の決定力を発揮できないシェフチェンコ。度重なるケガにも悩まされ、出場機会も思うように得られず、古巣ミランへの期限付き移籍(2008-2009)を経て、最終的には10年ぶりにディナモ・キーウ(2009-2012)へ復帰し、2012年に引退した。
シェフチェンコの移籍は、戦術的なミスマッチの典型例だ。ミランでは自由を与えられゴール前での決定力が生かされていたが、チェルシーでは守備のタスクを求められ彼の良さが消されてしまった。また、高額な移籍金がプレッシャーとなったという側面もあるだろう。同ポジションのライバルのドログバがキャリアの絶頂期にあったことも不運だった。
また、当時の英国メディアは、オーナーのアブラモビッチ氏とモウリーニョ監督の意見の対立がシェフチェンコの起用やチーム内での立場に悪影響を与えたとも報じている。

ジョゼップ・グアルディオラのブレシア移籍(2001-2002、2003)
バルセロナの下部組織「ラ・マシア」育ちで、1990年から2001年の間に欧州チャンピオンズリーグ(CL)1回、リーグ優勝6回、スペイン国王杯優勝2回、さらにはU-23スペイン代表として初の金メダル獲得にも貢献したMFジョゼップ・グアルディオラ(2006年引退、現マンチェスター・シティ監督)。バルセロナでシャビ・エルナンデスやアンドレス・イニエスタ、セスク・ファブレガスが成長し台頭したことで、2001年、31歳にして初の海外挑戦を表明すると、イングランドやイタリアから多くのオファ―が届く。その中にはマンチェスター・ユナイテッドやリバプール、ミランやインテルといったビッグクラブも名を連ねていた。
そこからグアルディオラが選んだのは、セリエAでも“弱小”の部類に入るブレシアだ。その決め手は、イタリア代表主将として、1998年のW杯アメリカ大会で準優勝に導いたFWロベルト・バッジョの存在だった。セリエAに昇格した2000/01シーズンに8位という好成績を収めた上、バッジョとグアルディオラという“夢のホットライン”は、サッカーファンの胸を躍らせた。
しかし、フタを開けてみれば、グアルディオラのパフォーマンスは全盛期に及ばず、そのプレースタイルから“絶好のボールの奪いどころ”と狙われ、対戦相手から削られまくることになり、度重なる負傷にも悩まされた。バッジョという稀代のファンタジスタと、グアルディオラという才能豊かなプレーメーカーとの化学反応は失敗に終わり、ブレシアの2001/02シーズンは13位に低迷してしまう。
バルセロナのようなポゼッション重視のスタイルとは異なり、中盤の底から攻撃を組み立てるグアルディオラの能力が十分に生かされなかった。さらに不運が彼を襲う。ドーピング検査で陽性反応を示し、4か月の出場停止処分を受け、裁判でも有罪判決を受ける。本人は潔白を主張したが、彼の無実が確定したのは引退後の2009年のことだった。
半年間のローマへの期限付き移籍を挟んで、彼のイタリア挑戦は「失敗」の烙印を押されたまま、失意にうちにカタール(アル・アハリ・ドーハ/2003-2005)、メキシコ(ドラドス・シナロア/2005-2006)と渡り、2006年にひっそりと引退。輝かしいバルセロナ時代とは打って変わって、寂しいキャリアの晩年を送った。
しかし、翌2007年からバルセロナのBチームで指導者キャリアをスタートさせると、その才能が開花。
バルセロナ(2008-2012)ではリーグ3連覇、CL優勝2回。バイエルン・ミュンヘン(2013-2016)でもリーグ3連覇、FIFAクラブワールドカップ優勝。2016シーズンから監督を務めているマンチェスター・シティでも4連覇を含むリーグ優勝6回、CL優勝1回と結果を残し続け、その年俸は2,000万ポンド(約36億円)まで跳ね上がった。
ブレシア、そしてローマでは選手として活躍出来なかったグアルディオラだが、その辛い経験をも糧にイタリアの戦術を学び、後の監督キャリアに生かしたとも考えられる。ブレシア移籍は期待されたほどの結果を残せなかったが、現在の姿を見れば、キャリア全体という意味では、この“しくじり”もまた重要だったと捉えることもできるだろう。
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