【お笑い界 偉人・奇人・変人伝】#239


 山田亮さん


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 先日、うっ血性心不全のため51歳で急逝した吉本新喜劇の山田亮君。1997年のオーディションで合格して座員になりました。

私は1990年から2000年まで2カ月に1本のペースで脚本を書いていた時に、何度か出演してもらいました。


 そんな中「どうしてもセリフが広島訛りになってしまうんです」と相談を受けたことがありました。広島生まれ、広島育ちの彼にとっては深刻な悩みだったのです。私は“お国訛りは武器”だと思っているので、「そんなん気にせんでええやんか、吉本が大阪弁がしゃべられへんのを承知でオーディションに合格させたんやから、訛りで責められるんなら吉本の方やと思うで。それと大阪人が一番嫌うのは“エセ大阪弁”やから無理してしゃべらん方がええし。広島弁のイントネーションがおもろかったら、周りが笑いに変えてくれるから気にせんでええよ」と答えていました。


 NSCでも関西圏以外の生徒には「千鳥がええ例やから、面白かったら関係ないよ」と最初の授業で伝えています。


 しばらくすると思った通り、辻本君がイントネーションをいじってくれて大きな笑いに変えてくれていました。


 山田君は高校を出て広島でホテルマンとして4年間働き、大卒と同じ年齢になったから、「違う人生もあるかな」と退職し、車で本州一周を計画して回っている時にたまたまスポーツ紙で「吉本新喜劇オーディション」の記事を見つけて「話のタネになるかな」ぐらいの気持ちで受けたら合格。「大阪弁もしゃべれんし、なんで受かったんかわからないんです」と笑っていました。


 吉本新喜劇は座員一同が“ファミリー”のようで運命共同体でもあります。有名なギャグ「ごめんクサイ」はチャーリー浜さんの言い間違いを、新喜劇のメンバーがいじって生まれました。

芸人みんなの「お客さまに笑ってもらうんだ」という意識が徹底しているので、ネガティブを全員でポジティブに変えていくチームワークがすごい舞台です。ですから山田君の広島訛りも生かしてくれたのだと思います。


 元ホテルマンなので、人一倍礼儀正しく、対応も大人で人当たりも良く、後輩にも慕われていたと思います。「お客さんが喜んでくださるのがうれしいですね。新喜劇に入って良かったです」と笑顔で話していた山田君がいないことが今も信じられません。これからもっといろんな役をやって、お客さんの笑顔を見たかっただろうと思うと本当に残念です。


 天国ではデビュー当時、厳しくも優しく指導してくださった先輩方に「来んのん早すぎるわ!」とツッコまれながら新喜劇談議に花を咲かせていることでしょう。


(本多正識/漫才作家)


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