【増田俊也 口述クロニクル】
写真家・加納典明氏(第32回)
作家・増田俊也氏による新連載スタート。各界レジェンドの生涯を聞きながら一代記を紡ぐ口述クロニクル。
◇ ◇ ◇
加納「そうだね。たしかに俺の年表を作るとしたらそんな感じだね。平凡パンチで仕事するようになって、俺の過激な部分が内側から溢れ出してきた」
増田「過激というのは、つまり先進的あるいは先鋭的という意味ですよね」
加納「まだインターネットもない時代だから情報がなくて、はっきりした解像度では目に見えてない。でも俺には渇仰があったんだよね。こんなんじゃないっていう」
増田「そこに平凡出版の平凡パンチ※との仕事があって」
※平凡パンチ:平凡出版社(現マガジンハウス)が発行していた若い男性向けの週刊誌。1964年創刊、1988年休刊。ファッションを中心に情報発信し、団塊世代の若者文化を牽引して週刊プレイボーイと部数争いで鎬を削った。
加納「そう。石川次郎*たちが俺から引き出してくれた」
※石川次郎(いしかわじろう):1941年東京生まれ。編集者。早大卒後、平凡出版に入社。
増田「同じく平凡パンチの編集者だった椎根和さんと」
加納「石川次郎と椎根和。あの2人が中心になってね」
増田「椎根和さんはそのときすでに知り合いだったと仰ってましたね」
加納「バーの飲み友達でね。それで飲んでるときに『今度、うちで女性のヌード撮ってみないか』と言われた。でも、当時まだ週刊プレイボーイでもヌードは今みたいな本格的なのはやってなかった。ヌードやってるのは芸術写真系の雑誌、モード雑誌、それから一般の総合月刊誌とか総合週刊誌で大御所が何枚か巻頭グラビアとして撮るものしかなかった」
増田「週刊文春とか週刊新潮とか」
根負けして撮ったヌードが売れて…
加納「うん。まだ俺の2世代上の写真家たちが撮ってた時代だ。いかに美しく撮るかという時代だった。ずっと俺は『嫌だ』と言ってたんだよ、椎根和に。『平凡パンチなんて世の中に害毒を流している雑誌じゃん、嫌だよ、俺は撮りたくない』って」
増田「椎名さんはどう仰いました」
加納「いや。
増田「典明さんの写真が掲載された号の平凡パンチは売れたんですか」
加納「2本か3本撮ったんだけど、けっこうな数が売れたらしい」
増田「それでニューヨークへ渡る橋が架かったと。1969年です。まだ海外が遠い時代です」
加納「異国も異国。めちゃくちゃ遠い時代。『行かないか』と。それでニューヨークが遠い時代だからね、他のギャラリーや複数のところからも話がきた。それでパンチの仕事を終えてからも少し残って撮ってきた」
増田「草間彌生さんと撮った伝説の写真集『FUCK』とか」
加納「うん。
増田「行ってくれと言われたときは心躍りましたか」
加納「もちろんだよ。そもそも今のニューヨークとは距離が違う。今でもニューヨークは芸術の発火点だし噴出場所だけど、当時はその何万倍もマグマを噴出してる時期だから。写真だけじゃなくて絵画から音楽から、すべてのトップが鎬をけずって新しい芸術を創り出そうとしていた。アンディ・ウォーホルとかみんないて、ニューヨークで芸術がまさに爆発するとき。そういうのを雑誌とかで興奮して見てたから、そこに行くんだという荒ぶる気持ちがあった」
増田「俺もやるぞと」
加納「トップレベルを目指したかった」
増田「ニューヨークでは草間彌生さんとも撮影で交流して、1969年に帰国します。その草間さん主催の乱交パーティの写真集『FUCK』で典明さんの大ブレイクがあります。帰国してすぐに個展を開いたようですが、どこでやったんですか」
加納「大日本インキのギャラリー。昔は『DICビルのギャラリー』と言ったけど、ものすごい数の人が見にきた。外国人記者クラブみたいなとこで記者会見した。それで一夜にして俺は名が売れ、有名になった」
(第33回につづく=火・木曜掲載)
▽かのう・てんめい:1942年、愛知県生まれ。19歳で上京し、広告写真家・杵島隆氏に師事する。
▽ますだ・としなり:1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。