役所広司(1956年1月1日生れ)と
(役所広司。 イラストby龍女)
仲代達矢(1932年12月13日生れ)である。

(仲代達矢。 イラストby龍女)
6月17日に公開された映画『峠』で、二人は共演している。
役所広司は、主役の長岡藩家老の河井継之助(1827~1868)を演じる。

(河井継之助を演じる役所広司。 イラストby龍女)
仲代達矢は、上司である長岡藩の前藩主牧野忠恭(1824~1878)を演じている。

(牧野忠恭を演じる仲代達矢。 イラストby龍女)
二人の共演は、1999年の原田眞人監督の映画『金融腐食列島 呪縛』以来23年ぶりである。
役所広司は、本名は橋本広司で、俳優になる前は、千代田区役所で土木課に務めていた。
芸名の名字「役所」は仲代達矢が命名した。
役所広司は俳優になるために仲代達矢が主宰する俳優養成所無名塾の二期生に合格して学んだためである。
無名塾は後述する様に、この後も日本を代表する実力派俳優を育てていく。
この仲代達矢の私塾の最大の功績は、役所広司を見いだしたことであろう。
それどころか、仲代達矢自身が日本映画黄金期の生き字引と言えるほどの素晴らしい才能と仕事をしてきた名優である。
今回は日本映画の黄金期と現在を結ぶ仲代達矢と役所広司の軌跡を簡単に振り返る。
無名塾の大きな役割についてももちろん触れていく。
仲代達矢が俳優になったのは高校卒業からバイトに明け暮れた日々を経た1952年である。
俳優座養成所4期生に合格した。
同期には、宇津井健(1931~2014)

(宇津井健 イラストby龍女)
中谷一郎(1930~2004)がいる。

(『水戸黄門』の弥七役で有名な中谷一郎 イラストby龍女)
同じ年に映画会社日活からデビューしたのが石原裕次郎(1932~1987)である。
俳優座で演技を学んだ師匠は、
小沢栄太郎(1909~1988)である。

(小沢栄太郎 イラストby龍女)
悪役を得意とした名脇役である。
俳優座・文学座・劇団民藝は新劇と呼ばれている。
新劇とは歌舞伎に対して新しい劇という意味で、元々は翻訳劇を中心に上演していたが、徐々に日本人の劇作家の新作を上演する様にもなった。
戦後(1945年以降)~60年代前半までは、上記の三劇団が主な新劇の劇団として有名だった。
養成所が出来たのは俳優座が最も早い。
文学座の養成所が出来たのが1961年である。
俳優座から1954年に分裂して出来たのが青年座で、こちらは翻訳劇よりも新作を上演する劇団である。
当時、俳優は映画出演に当たり、映画会社と専属契約するのが通常であった。
仲代達矢は年の半分は舞台出演にこだわったので、専属契約はせずフリーランスで活動した。
当時の大手映画会社5社(東宝・東映・松竹・大映・日活)の間で結ばれた五社協定により、専属俳優は基本的に他の会社の作品には出演しない。
フリーランスだったお陰で、どの映画会社にも自由に出演できた。
しかしそれは基本的に主役級の話で、専属俳優でも他社に出演することはよくあり、五社協定が自然消滅する1971年までの映画には、俳優名の左下に(〇〇)と会社名が表記してある。
仲代達矢が初めて映画に出演したのは、あの金字塔『七人の侍』(1954年)である。
『七人の侍』は盗賊団に悩まされている農民が浪人の武士を雇って退治する物語だ。
仲代達矢の出番は数秒で、農民が市場で通り過ぎる武士を観察するシーン。
一瞬、横顔と歩く姿が映るだけである。
ところがこのシーンを撮影中、監督の黒澤明は仲代達矢の歩き方が気に入らず、何度も撮り直しをさせた。
このことがあって、仲代達矢は二度と黒澤明監督の映画には出るもんかと思ったらしい。
ところが数年後、山本薩夫監督の大作『人間の條件』(1959~1961)で主役に抜擢され、俳優として大物になった時に黒澤明から出演依頼が来た。
最初は断ったが、黒澤明に呼び出されて出演することになった。
それが三船敏郎が主役で、敵役を演じた『用心棒』(1961年)である。

(『用心棒』の新田の卯之助を演じる仲代達矢 イラストby龍女)
続編の『椿三十郎』(1962年)でも、敵役を演じた。
この作品は時代劇の殺陣を変えた画期的な作品である。
刀がぶつかる効果音や、斬ると血が吹き出るなど、リアルな演出を行ったからだ。
1963年には、黒澤明監督のミステリーエド・マクベインの87分署シリーズの『キングの身代金』を原作に日本に翻案した、『天国と地獄』に刑事役で出演する。
特に60年代の仲代達矢の映画出演本数は多く、充実している。
小林正樹監督、橋本忍脚本の『切腹』(1962年)はカンヌでも高い評価を得ている。
イタリア映画『野獣暁に死す』(1968)ではメキシコ系アメリカ人の悪役を演じたり、国際的に活躍する。
特筆すべきは、1969年に制作された作品である。
元大映の勝新太郎(1931~1997)、
元日活の石原裕次郎、
小説家で元文学座の文芸部員だった三島由紀夫(1925~1970)と
仲代達矢が共演した
フジテレビ出身の演出家五社英雄監督の『人斬り』である。
勝新太郎が演じたのは、土佐勤王党の人斬り岡田以蔵(1838~1865)
石原裕次郎が坂本龍馬(1836~1867)
三島由紀夫が薩摩藩の人斬り田中新兵衛(1832~1863)
仲代達矢が土佐勤王党の盟主武市半平太(1829~1865)
この共演以降、勝新太郎とは仲良くなり一緒にのみに行く仲であった。
疎遠になってしまうある出来事があった。
勝新太郎は、映画人生の中で最も大役を引き受けることになった。
黒澤明監督の『影武者』での、武田信玄(1521~1573)とのその影武者の二役である。
撮影直後からトラブルが発生し降板することになった。
代役として仲代達矢が演じることになった。

(『影武者』の武田信玄を演じる仲代達矢 イラストby龍女)
仲代達矢は次回作『乱』(1985年)の主役に内定していたのでスケジュールを抑えられていたのだろう。

(『乱』の一文字秀虎を演じる仲代達矢 イラストby龍女)
勝新太郎の降板劇はあったものの、『影武者』はカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した。
『乱』の方も衣装のワダエミがアカデミー賞の衣装デザイン賞を受賞するが、黒澤明の時代劇は最後になった。
ここでは60年代の仲代達矢を黒澤明作品との関わりを中心に語った。
黒澤明と関わらなかった70年代について次に語っていこう。
70年代の仲代達矢は、斜陽期の映画会社が大作主義になりつつある中で、主役級を演じ続けてきた。
山崎豊子原作、山本薩夫監督『華麗なる一族』(1974年)万俵鉄平、
同じコンビの『不毛地帯』(1976年)壱岐正は、
TBSの日曜劇場『華麗なる一族』(2007年1月~3月)では、木村拓哉、
フジテレビでリメイクされた『不毛地帯』(2009年10月~2010年3月)では
唐沢寿明が同じ役を演じた。
山本薩夫監督、石川達三原作『金環蝕』では、官房長官を演じた。
この作品では、同期の中谷一郎や
新劇出身ではないが同じくフリーで活躍した三國連太郎(1923~2013)と共演した。
ちなみに1976年の市川崑監督『犬神家の一族』で犬神左兵衛を三國連太郎が演じたが、
2006年の同じ監督同じ石坂浩二主演のリメイクでは、仲代達矢が演じた。
1976年版には、弁護士役で仲代の師匠の小沢栄太郎も出演している。
仲代達矢はTVドラマでも大河ドラマで主役を演じた。
吉川英治原作『新・平家物語』(1972年)の平清盛(1118~1181)である。
同じ平家物語をモチーフにした大河ドラマ『平清盛』(2012年)では
松山ケンイチが演じた。
仲代達矢は、その後に続く演技派の主演俳優のお手本になった。
仲代達矢は新劇から映画に進出して最も成功した俳優の一人だ。
近い世代では、新劇俳優の目標となっていた。
具体例を挙げてみよう。
皆さんは、ハードボイルド作家大藪春彦原作の映画『野獣死すべし』をご存じだろうか?
私より少し上の世代の方なら
「松田優作(1949~1989)の代表作ね」
と言うだろうが、実は最初の映画化は1959年で、主人公の伊達邦彦を仲代達矢が演じた。

(『野獣死すべし』の伊達邦彦を演じる仲代達矢 イラストby龍女)

(松田優作が演じる伊達邦彦 イラストby龍女)
松田優作版は数ある映画化の中で決定版となったが、最初に仲代達矢が演じていたことに意味がある。
松田優作のファンなら、彼が原田芳雄(1940~2011)に憧れて一時期真似していた事はご存じであろう。

(原田芳雄 イラストby龍女)
原田芳雄は、仲代達矢が所属していた俳優座の15期生である。
原田芳雄はビートルズのメンバーのジョン・レノンと同い年で、非常にロックの匂いが強い俳優だ。
演劇の方ではなく映画に振り切ったのは、ビートルズが8年間の活動期間の中で、後半にライブを止めてレコーディングで音楽活動した様な行動によく似ている。
仲代達矢は1932年生れで、ビートルズが憧れたエルヴィス・プレスリー(1935~1977)とは3歳年上。
石原裕次郎とは同期デビューで、エルヴィスが憧れたジェームズ・ディーン(1931~1955)と世代が近い。
勝新太郎は、俳優になる前は父が長唄三味線方杵屋勝東治の息子の杵屋勝丸として三味線の師範をしていた。
1954年のアメリカ巡業の時に、彼に運命の出逢いがあった。
ハリウッドのスタジオを見学していると、普通の若者が歩いていて疑問に思っていたが、スタッフに主演俳優だと紹介された。
それが同い年のジェームズ・ディーンだったのである。
1955年に交通事故で25歳の若さでジェームズ・ディーンは亡くなってしまう。
生きているジェームズ・ディーンを現場で観た貴重な日本人が勝新太郎である。
後にジェームス・ディーンの演技はアクターズ・スタジオで学んだメソッド演技であると知り、勝新太郎は俳優の演技にのめり込んでいく。
仲代達矢は、ジェームズ・ディーンとは一歳下だ。
いわゆるロックンロール世代の俳優である。
仲代達矢は、役毎にその役にふさわしい音程を選んで使い分けたりして、音楽センスを持っていた。
弟の仲代圭吾はシャンソン歌手。
仲代達矢の養女(宮﨑恭子の妹宮﨑総子の実子)、仲代奈緒はジャズ歌手である。
原田芳雄は『横浜ホンキートンクブルース』と言う名曲が持ち歌で、松田優作もカバーした。
息子の原田喧太は俳優で、ギタリストである。
原田芳雄は、仲代達矢とは『闇の狩人』(1979年)で共演したときに
「仲代さん、仲代さん」と慕ってきたという。
『闇の狩人』には新人時代の役所広司も出演していた。
松田優作は文学座養成所で演技を学んだ。
同期にジャズ歌手の阿川泰子、
一年先輩に桃井かおり、
一年後輩に中村雅俊がいる。
1974年に『竜馬暗殺』で共演し、原田芳雄に憧れるようになる。
つまり、松田優作は仲代達矢には直接的に影響は受けていないが、新劇俳優が映画で成功する系譜としてみていくと、立派に仲代達矢の後輩であると言えるのだ。
仲代達矢と原田芳雄の最後の共演は『座頭市 THELAST』(2010年)。
仲代達矢は大腸がんを患っていた原田芳雄を労って言葉をかけた。
勝新太郎や原田芳雄は役の中身を考えた上で時にはアドリブもする。
しかし仲代達矢は台本の自分の台詞を書にしたためて壁に貼って覚える。
徹底した台詞重視である。
台詞を読み込んで役作りをするやり方は、舞台俳優としての出自がシェイクスピアにあるからだろう。
仲代の演技の方法は地味であるが理論的で分かりやすい。
このように、仲代達矢に憧れる若手俳優は多かった。
自然と仲代達矢を慕う後輩達が集まってきたのである。
無名塾は1975年に仲代達矢の自宅の稽古場に集まる若手俳優の間で自発的にスタートした。
塾生を募集し始めたのは1977年である。
創立者は仲代達矢の妻である宮﨑恭子(1931~1996)である。
元々は俳優座養成所2期生で仲代達矢の先輩に当たる。
1957年に仲代達矢と結婚し、俳優から脚本家に転身した。
脚本家としてのペンネームは隆巴。
隆巴は単発ドラマ時代の70年代の東芝日曜劇場で描いている。
映画の代表作は山本周五郎の小説を脚色した小林正樹監督で仲代達矢が主演した『いのち・ぼうにふろう』(1971年)で後に舞台化して、無名塾で何度か上演されている。

(宮﨑恭子 イラストby龍女)
それでは一部ではあるが、無名塾が育てた俳優をこの次に紹介していこう。
無名塾の募集要項は具体的に決まった募集人数はないが、10人以下である。
年齢制限は18歳から30歳である。
募集期間は年度末の2月中旬から3月中旬。
合格すると、3年間、世田谷区岡本にある無名塾の稽古場に通う。
地方出身者は近くに部屋を借りて通学する。
授業料は無料である。
その代わりアルバイトは禁止で、少なくとも3年間は演劇の稽古に専念するよう努める。
仲代達矢は、父親を幼い頃に亡くし、母が妻子ある弁護士の妾をしたりと、複雑な家庭の事情のために経済的に苦しかった。
バイトに明け暮れる日々で、勉強する時間が無かった。
後輩には俳優の勉強に専念して欲しいとの思いで、無名塾の最初の3年間はバイト禁止にした。
無名塾が上演する演劇は翻訳劇が多い。
しかし、『いのち・ぼうにふろう』のような宮﨑恭子と創設した無名塾ならではの演目もある。
無名塾の第一期生で、有名になったのは
隆大介(1957~2021)である。
芸名は、宮﨑恭子のペンネーム「隆巴」から「隆」を貰った。

(隆大介 イラストby龍女)
仲代達矢とは黒澤明監督の『影武者』で、仲代達矢が武田信玄と影武者の二役、隆大介が織田信長役で共演しているのが最も有名だ。
他にも『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』(1981年)、『北の螢』(1984年)で共演している。
名脇役の益岡徹(1956年8月23日生れ)は、第4期生だ。

(益岡徹 イラストby龍女)
筆者は市村正親主演の舞台『炎の人ゴッホ』のゴーギャン役で生の演技を観ている。
ちなみにアニメシリーズ『機動警察パトレイバー』に登場する
特車二課の後藤隊長のモデルは仲代達矢である。
筆者が昔、パトレイバーにハマっていた25年前、妄想していて後藤隊長役にぴったりだと思った人が益岡徹である。
筆者は無名塾の歴代の男性の教え子を観ていると、皆どこかしら仲代達矢に似ていると思った。
一方、女性の教え子は宮﨑恭子に似ている。
益岡徹は、9期生の若村麻由美(1967年1月3日生れ)と、
時代劇シリーズ『御家人斬九郎』(1995年~2002年)で共演している。

(若村麻由美 イラストby龍女)
『御家人斬九郎』主役の渡辺謙は、元文学座の岸田今日子らが創立した演劇集団円の出身である。
母親役に岸田今日子(1930~2006)、塩見三省と同じ劇団の俳優が出演している。
若村麻由美は朝ドラ『はっさい先生』(1987年10月~1988年3月)のヒロインで名前を知られるようになった。
無名塾出身で朝ドラの主役を務めた人物は他に2人いる。
11期生の渡辺梓(1969年2月20日生れ)は『和っこの金メダル』(1989年10月~3月)でバレーボール選手を演じた。

(渡辺梓 イラストby龍女)
田中実(1966~2011)は若村麻由美と同じく9期生。
『凜凜と』(1990年4月~10月)で、TVの開発者をモデルとした主人公を演じた。

(田中実 イラストby龍女)
近年、映像の世界で活躍しているのは、22期生の2人である。
滝藤賢一(1976年11月2日生れ)は、大ヒットしたTBSの21時のドラマ、日曜劇場『半沢直樹』(2013年7月~9月)で名前を知られることになった。
売れ始めたのは、原田眞人監督の『クライマーズハイ』(2008年)で新聞記者役に抜擢されてからである。
筆者は朝ドラ『梅ちゃん先生』(2012年4月~9月)で認識した。
2007年まで無名塾に在籍していた。
仲代達矢との舞台の共演はあった。
2015年のNHKの医療ドラマ『破裂』で共演をした。

(滝藤賢一 イラストby龍女)
真木よう子(1982年10月15日生れ)は中学を卒業して、無名塾に入り2年目にはゴーリキーの戯曲『どん底』のナターシャ役に抜擢されるなど、仲代達矢にも期待されていた。
合宿の稽古を早く済ませて発声練習していたところを仲代達矢がサボっていたと誤解して怒ったところ、逆に怒ってそのまま帰って、辞めてしまった。
映画は、井筒和幸監督『パッチギ!』(2005年)、本広克行監督『サマータイムマシン・ブルース』(2005年)など、小さな役だが、抜擢されるようになる。
『ベロニカは死ぬことにした』(2006年)でメジャー配給の角川映画で初主演する。
西川美和監督の『ゆれる』(2006年)で第30回山路ふみ子映画賞 新人女優賞を受賞した。
筆者もこのあたりから認識するようになる。
仲代達矢とは一緒のシーンはないが、大河ドラマ『風林火山』(2007年)に出演した。
仲代達矢は最初に登場する武田信虎、真木よう子は小山田信有(田辺誠一)の側室・美瑠姫を演じた。
大森立嗣監督『さよなら渓谷』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞、
是枝裕和監督『そして父になる』で最優秀助演女優賞と2013年の公開作品2本でダブル受賞した。

(真木よう子 イラストby龍女)
ちなみに滝藤賢一と真木よう子は大河ドラマ『龍馬伝』(2010年)で、共演している。
滝藤賢一は小松帯刀(1835~1870)
真木よう子が龍馬の妻、楢崎龍(1841~1906)を演じている。
ちなみにかつて仲代達矢が演じた武市半平太役の大森南朋は大森立嗣監督の弟である。
近いうちに真木よう子と仲代達矢が共演する姿が観たい。
一部ではある無名塾出身の俳優を上げてみた。
最も成功した俳優はやはり役所広司であろう。
最後に役所広司の経歴を詳しく観ていこう。
役所広司は、長崎県諫早市の出身である。
1978年に無名塾の二期生として数百倍の倍率を超えて合格した。
始めは無名塾の舞台を中心に出演し、映画も1979年から出ている。
大きな役を演じる様になったのはTVドラマである。
1983年の大河ドラマ『徳川家康』の織田信長役である。

(『徳川家康』の織田信長を演じる役所広司 イラストby龍女)
翌年の1984年にはNHKの新大型時代劇『宮本武蔵』が初主演である。
筆者はその頃に時代劇にハマり歴史好きとなった。
織田信長と宮本武蔵のイメージは役所広司で出来ている。
90年代に入ると、映画での名演が続く。
原田眞人監督『KAMIKAZE TAXI』(1995年)で毎日映画コンクール主演男優賞を受賞。
1996年の周防正行監督の『Shall we ダンス?』が大ヒットする。
同年の細野辰興監督『シャブ極道』、小栗康平監督『眠る男』と会わせて、その年度の主演男優賞を独占する。

(『Shall we ダンス?』の役所広司 イラストby龍女)
7年連続日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞するなど、一時期日本映画は役所広司の時代であった。
今村昌平監督『うなぎ』(1997年)はカンヌ映画のパルムドールを受賞し、国際的に名前を知られるようになる。
2005年は『SAYURI』でチャン・ツィイーやコン・リー等の中華圏の俳優や、渡辺謙・桃井かおり・工藤夕貴と共演した。
菊地凛子が第79回アカデミー賞で助演女優賞候補になったことで話題になった『バベル』(2006)では菊地凛子の父親役で出演した。
2011年の『聯合艦隊司令長官 山本五十六』ではタイトルロール(山本五十六)を演じた。
真珠湾攻撃の発案者としても知られる海軍元帥山本五十六(1884~1943)は、元長岡藩士高野貞吉の息子である。
大正4年に旧長岡藩主の後嗣・牧野忠篤の口添えで家老筋の山本家を相続する。
牧野忠篤とは『峠』で仲代達矢が演じた牧野忠恭の五男である。
原田眞人監督『わが母の記』(2012年)は映画や大河ドラマになった『風林火山』の原作者でもある井上靖(1907~1991)の自伝的小説である。
ちなみに井上靖は、毎日新聞記者時代、山崎豊子(1924~2013)の上司で、彼女の文章力は井上靖に鍛えられたという。
役所広司は井上靖の分身、伊上洪作を演じて、母親役は樹木希林(1943~2018)である。
この作品で、役所広司は久々に日本アカデミー賞優秀主演男優賞、樹木希林が最優秀主演女優賞を受賞した。
樹木希林は1961年の文学座付属演劇研究所の1期生である。
1964年の文学座分裂騒動で、付き人をしていた杉村春子(1906~1997)の説得で文学座に残ったが、1966年に退団して以来、映像の方で主に活躍する。
役所広司は、2018年の白石和彌監督『孤狼の血』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞する。
広島の呉を舞台に警察とヤクザの間に立って暗躍する清濁併せのむ刑事を演じた。
2020年の西川美和監督の『すばらしき世界』では、元ヤクザで出所してきた男を演じている。
日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞した。
西川美和監督は、フリーの助監督時代に是枝裕和監督の下で働いている。
役所広司主演の最新作『峠 最後のサムライ』の監督は
黒澤明(1910~1998)の晩年の3作(『夢』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』)の助監督を務めた、

(黒澤明 イラストby龍女)
小泉堯史(1944年11月6日生れ)である。
1970年から黒澤明に師事している。

(小泉堯史 イラストby龍女)
『峠』の中で、愛妻家であった河井継之助は、妻(松たか子)を芸者遊びに連れてきて、遊学先の長崎で覚えた踊りを披露するシーンがある。
役所広司は長崎出身なので、脚本の小泉堯史は彼を想定してこのシーンを足したのだろうか?
今回は仲代達矢と役所広司を軸にした師弟関係を紹介した。
最後に役所広司には後継者のような存在はいるのか?
考えてみよう。
役所広司は現役バリバリの俳優なので、多忙で後輩の俳優を教える時間的余裕はない。
仕事の中でそれらしき存在を見つけたように思われる。
役所広司は1本映画を監督している。
2009年の『がまの油』である。
役所広司は主演も兼ねている。
息子役に起用したのが瑛太(現・永山瑛太)(1982年12月13日生れ)である。
ちなみに無名塾の後輩の益岡徹も出演している。
一方、永山瑛太が初監督した短編『ありがとう』(WOWOWアクターズ・ショート・フィルムの第2弾の内の1本)の主役が役所広司である。
役所広司の最新作『峠』では、弟の永山絢斗(1989年3月7日生れ)が従者の役で共演している。
永山兄弟とは非常に縁が深いようだ。
ちなみに永山瑛太は原田芳雄の遺作『大鹿村騒動記』(2011年)にも出演していた。

(永山瑛太 イラストby龍女)
仲代達矢の主宰する無名塾は俳優養成の場所としては難関校でもあるので、少数精鋭ではある。
今後も無名塾からどんな優秀な俳優が出てくるか楽しみである。
無名塾で学ばなかった俳優にも、大きな影響を与えている。
そういう意味でも日本の最高峰の俳優養成所の一つなのである。
参考文献:春日太一『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』PHP文庫
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