(吉永小百合 イラストby龍女)
映画監督山田洋次(1931年9月13日生れ)である。

(山田洋次 イラストby龍女)
今回取り上げるのは、二人のコンビの最新作『こんにちは、母さん』が9月1日に公開されるからである。
吉永小百合は主人公の神崎福江を演じる。
息子の昭夫が大泉洋(1973年4月3日生れ)

(『こんにちは、母さん』の大泉洋 イラストby龍女)
孫の舞が永野芽郁(1999年9月24日生れ)である。

(『こんにちは、母さん』の永野芽郁 イラストby龍女)
吉永小百合があまりにも若すぎる風貌なので、今回が初の祖母役となった。
同い年の宮本信子(1945年3月27日生れ)が10年前に『あまちゃん』で祖母役を演じていたことを考えると遅すぎる配役である。
ちなみに『あまちゃん』の脚本家であった宮藤官九郎(1970年7月19日生れ)もこの映画に出演している。
つまりこの作品は、日本一の喜劇俳優・監督・脚本家が揃った最高峰と言っても過言ではないのである。
さて、この映画を見る前に、考えなければいけない問題がある。
長年日本映画界を支えてきた巨匠である山田洋次に対して、今は亡き津川雅彦(1940~2018)がこう批判した。
「山田洋次とか、時代劇を何も分からない人が時代劇映画を作ったりするから…くすぐったくて」
と2013年の「京都国際映画祭」の準備会の記者会見で発言している。
また、現・群馬県知事の山本一太が国会議員時代に配信したニコニコ生放送でゲストに出た時にこういう発言もしている。
「日本の映画人は左翼が多くて、アメリカが嫌いなんです。(中略)なぜ左翼が多いとだめかというと、芸術映画を撮りたがるんです。」
2014年の1月12日付の女性週刊誌ポストセブンの取材ではこう答えている。
『武士の一分』なんて作って〈一分〉を描かない。反対に、武士はだらしないという映画にする。娯楽映画でも芸術映画でもない。なんだろ、あれは。
これは何だろう?
時代劇の歴史と深い関係があるので、詳しく語ってみよう。
これは、津川雅彦が右翼で山田洋次が左翼だからと単純に政治的に分けても済む話では無い。
時代劇を知っているとか知らないという問題では無く表現をめぐる対立ではないか?
確かに山田洋次が本格的な時代劇に取り組んだのは藤沢周平(1927~1997)原作の『たそがれ清兵衛』(2002年11月2日公開)が初めてである。

(『たそがれ清兵衛』の真田広之 イラストby龍女)
庄内地方にある架空の小藩海坂藩の下級武士を主人公にした。
自ずとリアルな描写に頼らざるを得ないのではないか?
津川雅彦がマキノ雅彦名義で監督した『次郎長三国志』(2008年)は幕末の侠客、清水次郎長(1820~1893)を描いた娯楽時代劇である。
同作は伯父に当たるマキノ雅弘(1908~1993)が監督した1950年代に公開された9部作が有名だ。
近年では大ヒット漫画『ONE PIECE』の作者の尾田栄一郎が好きな映画にあげているくらいだ。
2代目広沢虎造(1899~1964)の浪曲で有名な連作を村上元三(1910~2006)が小説にまとめた作品が『次郎長三国志』の原作となっている。
ばくち打ちでシャバを奪い合う侠客がお互いの義理と人情をかけて争う抗争を描いている。
様式美に頼らざるを得ない。
つまり原作を選ぶ段階から描きたいとする表現が全く違う。
津川雅彦(本名・加藤雅彦)は日本映画の父と言われた牧野省三(1878~1929)を祖父に持つ。
京都に土地を持っていた牧野省三は敷地内にあった「千本座」を買い取って芝居を始めた。
それと当時はやり始めた活動写真を組み合わせて興行を打ち始めた。
映画の中で芝居を始めた。
芝居とは元々歌舞伎を示す言葉で、徐々に当時の新劇に見られるようなリアルな表現も取り入れるようになった。
こうした新しい表現を含めて江戸時代の様式を借りながら描いたジャンルを「時代劇」と呼ぶようになった。
無声映画時代の代表作が田村高廣(1928~2006)・正和(1943~2021)・亮(1946年5月24日生れ)の父である
阪東妻三郎(1901~1953)が主演した『雄呂血』(1925年11月20日公開)である。
製作は阪東妻三郎プロダクションで、配給元はマキノ・プロダクションだった。
製作総指揮が牧野省三である。
津川雅彦の発言は、いわば自分たち一族が日本映画の中でも特に時代劇を作ってきた自負から来る。
しかし、これは日本映画全盛期の1950年代に起った表現の大改革を抜きに、津川雅彦の一方的な主張を受け入れるわけにはいかない。
山田洋次は、時代劇が分からないのではない。
ある映画監督から影響を受けて時代劇のリアリズム表現を選んだに過ぎない。
山田洋次は1954年に東大法学部から松竹へ補欠入社した。
当時の映画会社は大学生憧れの就職先で倍率も高く助監督枠で入社するのは至難の業であった。
山田洋次が入社した1954年とは
日本映画の金字塔『七人の侍』が公開された年である。
若き山田洋次は入社した松竹が誇る小津安二郎や木下恵介よりも東宝の黒澤明(1910~1998)に憧れる映画青年であった。
黒澤明はジョン・フォードに代表される西部劇に影響を受けていた。
日本でしかない表現を求めて『七人の侍』では雨の多い日本ならではの泥にまみれるアクションシーンにこだわった。
ハリウッドがある晴れが多いカリフォルニア州では出来ないからである。
黒澤明は更に『椿三十郎』(1962)で三船敏郎と仲代達矢が戦うクライマックスで、仲代達矢の首からホースで血糊が吹き出す仕掛けを作って、リアルな殺陣を表現した。
これらのリアリズムな時代劇は娯楽性もあって大ヒットした。
しかし問題はこれまで様式美でもって時代劇を作ってきた東映の全体の興行収入が減ってしまった事だ。
東映とは、戦後に出来た映画会社だが、創業にはマキノ雅弘が関わっている。
日米合作で真珠湾攻撃を描いた『トラ・トラ・トラ!』(1970年)では最初日本側の監督は黒澤明であった。
ところが撮影が行われた東映撮影所では、トラブルが連発した。
山本五十六役が素人で、東映の幹部が使う控え室を使っていたこと。
ヤクザ映画が製作されていた東映の撮影所に黒澤明の嫌いなヤクザが出入りしていたこと。
更に黒澤明は恨みを買っていて、まともに東映撮影所のスタッフは協力してくれなかった。
黒澤明はストレスが積み重なり鬱状態になって、降板を余儀なくされた。
日本側の監督は二転三転したあげく東映の生え抜きの深作欣二(1930~2003)と日活からフリーになったばかりの舛田利雄(1927年10月5日生れ)に決まった。
今では世界の巨匠として知られる黒澤明もいつものスタッフでなかったために降板する事件が起ったのだ。
実際は配給製作会社の20世紀フォックスとの契約上のトラブルもあった。
一方で日本国内でも黒澤と東映の間にトラブルがあったことは見逃せない事実である。
映画産業が衰退し、TV業界が隆盛し始めると時代劇は主に連続ドラマとして放送されるようになった。
ここでも時代劇の撮影所として、東映太秦撮影所が1番稼働していた。
1971年に大映が倒産した。
撮影所で美術を担当していた西岡善信(1922~2019)は、日本一の映像美を誇っていた会社が倒産して困っていた。
1972年に元大映社員を率いて職人集団として映像京都として独立した。
映像京都は松竹撮影所を間借りして事務所を構えていた関係上、松竹制作の時代劇を担当する事も多かった。
特に90年代以降の松竹のTV時代劇、2代目中村吉右衛門が主演した
『鬼平犯科帳』(1989~2016)で2010年の解散まで関わっていた。
(西岡の2010年の引退後は株式会社京都組として存続している)
元々様式的だった美術にリアリズムを加えた『鬼平犯科帳』は今のTV時代劇の主流の表現になっている。

(20年前の山田洋次 イラストby龍女)
山田洋次が監督した『たそがれ清兵衛』には、衣装に黒澤明の娘の黒澤和子、美術監修に西岡善信などが関わっているので、津川雅彦が山田洋次が時代劇を知らないというのは根拠が全くない。
恐らく津川雅彦が気に入らなかったのは、時代劇のクライマックスの殺陣の描き方ではなかったのか?
王道の時代劇の殺陣の醍醐味は、少ない人数で多い敵に向かってバッタバッタと切り結ぶチャンバラにある。
しかし、『たそがれ清兵衛』の殺陣は、真田広之と田中ミン(氵に民)の1対1のガチンコ勝負が延々と続く。
しかも室内の暗闇で二人の動きが見にくい。
これは、日本映画が育ててきた「時代劇」の歴史に関わる重要な表現上の対立に過ぎなかったのだ。
観客にとっては、思想はどうでも良くて映画が面白ければ良いのだ。
さて筆者がX(旧Twitter)上でやりとりしている人物に映画評論家の小玉大輔という方がいる。
WOWOWが開催した映画王選手権の2代目王者である。
(初代は後に映画評論家になった元キャメラマンの松崎健夫)
「全国のお母さん」に見せたいようなんですが、
— 小玉大輔 (@eigaoh2) August 20, 2023
山田洋次が想定してるお母さんって何年生まれなんでしょうね。
そういえば、予告編の大泉洋の口調って渥美清っぽい気がしません?
言葉の間とか pic.twitter.com/fL3zAXzbWD
この疑問に対して、筆者は「団塊の世代」と答えたので、吉永小百合とはどういう存在なのか?
同い年の宮本信子が出ていた『あまちゃん』にあやかって、アイドル目線で語ってみたいと思う。
吉永小百合は、1957年に小学校6年生の時にラジオドラマ『赤銅鈴之助』でデビューしている。
共演した今でも活躍中の俳優に藤田弓子(1945年9月12日生れ)がいる。
1960年に中学を卒業して高校に入ると、日活撮影所に入社した。
日活(日本活動冩眞株式會社)自体は、1912年創業で大手の映画製作会社としては歴史が古かった。
戦時中に製作部門を大映に譲渡して、戦後に新たに撮影所を調布に建てて再建した。
元宝塚の男役から転向した映画プロデューサー水の江瀧子(1915~2009)が手がけた芥川賞を受賞した石原慎太郎の小説を映画化した『太陽の季節』(1956年5月17日公開)が大ヒットした。
そこで描かれた裕福な湘南在住の若者集団・太陽族の生態をアドバイスするために石原慎太郎の弟石原裕次郎が撮影に参加していた。
水の江瀧子は、見た目も良い裕次郎が気に入り、脇役ながら『太陽の季節』で俳優デビューさせた。
水の江瀧子は、同じ石原慎太郎原作の次の映画作品となった『狂った果実』では、石原裕次郎を主役にする大抜擢の人事を行った。
加藤雅彦は、石原裕次郎演じる滝島夏久の弟・春次役で日活所属の大人の俳優として再デビューした。
『太陽の季節』で実兄・長門裕之が演じた主人公・津川竜哉からあやかって
津川雅彦と石原慎太郎から芸名を貰った。
ニューフェイスの新人俳優を中心とした青春路線と、小林旭や宍戸錠が出演する無国籍アクションなど
若いスターを中心に、日活の黄金期が訪れた。
日本映画が最も見られた1958年のピークが過ぎていた。
吉永小百合は青春路線のスターとして浜田光夫(1943年10月1日生れ)とコンビを組んだ。
特に埼玉県川口市の鋳物工場を舞台にした『キューポラのある街』(1962年4月8日公開)がヒットして、ブルーリボン賞の作品賞と主演女優賞を獲得してブレイクした。
歌手としては大作曲家で後に国民栄誉賞を受けた田正(1921~1998)の門下生だ。
同じ門下生の橋幸夫(1943年5月3日生れ)とのデュエット曲
『いつでも夢を』(1962年9月20日発売)は、が260万枚の大ヒットになり第4回日本レコード大賞を受賞した。
当時人気絶頂の歌手と、人気俳優の組み合せで忙しくて同じ日にレコーディングが出来ず別撮りだったそうだ。
この曲は朝ドラの『あまちゃん』でも取り上げられているので、アイドルを語るのにも欠かせない一曲である。
女性のアイドルは昭和初期に活躍した明日待子(1920~2019)が元祖と呼ばれる。
筆者は彼女のことは2022年に放送されたNHKのドラマ『アイドル』で古川琴音が演じて知った。
言葉自体は古くから存在していた。
TV界でのアイドルが本格的に確立したのは70年代に入ってからだが、先に舞台や映画界にはアイドル的存在はいた。
吉永小百合の日活の先輩には、浅丘ルリ子(1940年7月2日生れ)などがいた。
スターシステムで、石原裕次郎と共演したりしたが、この時代の吉永小百合がコンビを組んで大ヒットしたのはやはり浜田光夫と組んだ『愛と死を見つめて』(1964年9月19日公開)である。
吉永小百合の映画に最も出演していた時期は日活時代の若手俳優の頃だった。

(日活時代の吉永小百合 イラストby龍女)
1965年に早稲田大学第二文学部西洋史学専修に入った。
多忙のために高校は中退したが、大検を受けて入学資格を得た。
このあたりから吉永小百合のファンで団塊世代を中心とする「サユリスト」が出てきた。
70年代に日活が路線変更をすると、フリーになり他の映画会社の作品にも出演するようになる。
映画界はTVドラマとの差別化を図るために大作主義が目立ち、東映の任侠路線のスターだった高倉健(1931~2014)と共演した226事件を背景にした悲恋モノ『動乱』(1980年1月19日公開)が話題になった。
80年代は文芸作品の映画化が多かった時代で谷崎潤一郎の長編が原作の『細雪』(1983)では大阪の船場の美人四姉妹の三女。
宇野千代の小説が原作の『おはん』(1984)
大正時代の文学者の群像劇『華の乱』(1988)では与謝野晶子を演じた。
数少ないTVドラマ主演作の映画版『夢千代日記』(1985)は、吉永小百合の実年齢に合わせて、広島で体内被曝した芸者という設定である。
ドラマ版で共演したのがきっかけで、樹木希林(1943~2018)と親友になった。
ここ20年ほどは、母親役か教師と教え子の関係で若手俳優と共演する機会も増えている。
吉永小百合と共演することが一流俳優の証のような存在になっている。
『こんにちは、母さん』で初の祖母役を演じるが、何故これまで演じてこなかったか?
吉永小百合本人が水泳を1キロするほどの体育会系で若々しいだけではない理由もあるような気がしている。
団塊ジュニア世代特有の問題もあるのではないか?
吉永小百合のファン層は初めての戦後生れの世代に当たる「団塊の世代」である。
憧れのスターとなる人の年齢はその世代より少し年上である。
この世代が結婚して子供を産む頃に形成されたのが第2次ベビーブームに誕生した「団塊ジュニア」世代だが、今度は彼らが結婚出産の年齢に達しても第3次ベビーブームは起らなかった。
団塊の世代の適齢期にはまだ日本の経済は上向きで景気も良かったが、団塊ジュニア世代はバブル崩壊以降になる。
日本の人口のピークは過ぎてしまっていたので、経済が悪くなったからと単純に考えるべき動きではない。
吉永小百合がようやく祖母を演じることになったのは、人口に対して若い層の人口が減り続けていることと無関係ではあるまい。
高齢化は結婚出産の高齢化でもあるので、一人あたりの出産人数は減るし、家族で暮らすより一人世帯も増えたのは日本の経済が成熟化して、低所得でも生活できるものの豊かさの証拠でもある。
筆者の幼少期より、洋服が安くなったし雑貨も手に入れやすくなった。
貧富の格差は拡大しているが、モノが無くて貧しいわけではないので、人口を増やさなくてはいけない理由が無くなった。
人口が増える時期もあれば減る時期があるのが当然の流れだ。
『こんにちは、かあさん』の予告編を観る限り、天然の母(吉永小百合)に振り回されて、情緒不安定な娘(永野芽郁)にも振り回される中年男の大泉洋は見物だ。
大泉洋は山田洋次監督の代表作である『男はつらいよ』全作を観ているそうだ。
今回の口調は当然主人公・車寅次郎を演じた渥美清(1928~1996)を意識したに違いない。
しかし、大泉洋が車寅次郎と大きく違うのは、トラブルメイカーかそうでないかにある。
シナリオ上で主役級の登場人物は、ドラマを動かす存在か巻き込まれる方かに分類される。
車寅次郎は、トラブルメイカーで、大泉洋が演じる役の多くはトラブルメイカーに振り回される方である。
渥美清演じる車寅次郎は悪気無く行動を起こして周囲を困らせる。
大泉洋は真面目で神経質なキャラクターで公務員やサラリーマンがよく似合うので、巻き込まれ型になってしまう。
それでも両者に共通する特徴は流ちょうな語り口であろう。
山田洋次監督最新作の『こんにちは、母さん』は劇作家の永井愛(1951年10月16日生れ)が2001年に新国立劇場からの委嘱により書いた戯曲。
2007年にNHKの土曜ドラマで映像化された。
今回吉永小百合が演じる主人公の神崎福江は加藤治子(1922~2015)が演じた。
元々の戯曲には孫の舞はいなかった。
映画オリジナルの設定である。
次の頁では今回が山田洋次の記念すべき90本目の作品になるので、過去の作品群を紹介しよう。
『こんにちは、母さん』は山田洋次の90本目の作品だ。
そのフィルムグラフィーの半分以上が『男はつらいよ』50本である。
1969年から1995年までの48本と1本の特別編、甥の満男(吉岡秀隆)が主役の50作目がある。
『男はつらいよ』にマドンナ役で出演することは、日本を代表する女優であるというステイタスであった。
吉永小百合も第9作目『男はつらいよ 柴又慕情』(1972年8月公開)と
第13作目『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』(1974年8月公開)で高野歌子役で出演している。
吉永小百合の日活時代の先輩浅丘ルリ子はドサ回りの歌手リリーとして
第11作『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』(1973年8月公開)
第15作『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(1975年8月公開)
第25作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(1980年8月公開)
第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(1995年12月公開)
最多の4作品でマドンナを務めている。
『男はつらいよ』シリーズは前期は年2回制作されていたが、元々も結核で片肺を摘出している渥美清の体調が徐々に悪化していたので年に1本ペースに減った。
空いたスケジュールで、『学校』シリーズや単発の喜劇も数多く製作した。
記念すべき日本アカデミー賞の第1回作品賞を受賞したのが、山田洋次がピート・ハミルのコラムを映画化した
『幸福の黄色いハンカチ』(1977年10月1日公開)である。
渥美清の死後は、脚本のみで『釣りバカ日誌』に参加した。
藤沢周平3部作『たそがれ清兵衛』、『隠し剣 鬼の爪』(2004年10月30日公開)『武士の一分』(2006年12月1日公開)を発表した。
中島京子原作の『小さいおうち』(2014年1月25日公開)は、黒木華が第64回ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞した。

(『小さいおうち』 イラストby龍女)
山田洋次は、『三丁目の夕日』シリーズの山崎貴のような超特大ヒット作品の監督ではない。
確実にスマッシュヒットを出し、赤字を出さない。
打率の良いヒットメイカーである。
時代劇は人件費や衣装で予算がかかることを考えると、藤沢周平3部作で描いたように少人数での殺陣は予算の効率が良いはずである。
実は『男はつらいよ』シリーズの前半で寅次郎の夢という形で、公開当時流行っているジャンルの映画のパロディーをしているので、限られた枠の中で好きなことをしているという発想の豊かさなどが見られる。
そもそも『男はつらいよ』の主人公、車寅次郎は露天商を営むテキヤと呼ばれるアウトロ-である。
このシリーズは東映のヤクザもののパロディなのだ。
第1作目(1969年8月27日公開)での、午前様(笠智衆)の娘で幼なじみの冬子(光本幸子)とデートする時の目配せは、マキノ雅弘の演出を引用している。
津川雅彦の山田洋次批判は、かなり感情的な要素も見られる。
日活で「津川雅彦」としてデビュー後1958年に松竹へ移籍したが、1964年に退社している。
1969年にデヴィ夫人との不倫騒動もあって、仕事が激減した。
1973年に朝丘雪路との結婚後、誕生した一人娘の真由子が赤子の時に誘拐された事件でマスコミにあること無いこと書かれた。
長年確執があった兄の長門裕之が左翼だった事が積み重なった上で決定的な出来事があった。
東映の映画『プライド・運命の瞬間』(1998年5月23日公開)で津川雅彦は東京裁判における東条英機(1884~1948)を演じ、思想的に右傾化していった。
2004年には日本国憲法9条の改正に反対する『九条の会』は結成されたが、関連団体の「映画九条の会」の呼びかけ人の中に山田洋次も含まれている。
津川雅彦の山田洋次への対抗意識は、彼の経歴を観ると妙に納得するところがある。
筆者も津川雅彦は好きな俳優なので批判はしたくは無いが、山田洋次の件に関しては分が悪い。
山田洋次は喜劇作家でもある。
津川雅彦は侍がかっこ良く描かれていないことに不満を持っていた。
シナリオで人物を描くには登場人物のかっこ良さと悪さの二面性を描くことは当然だ。
ただしどちらを強調して描くかは作家性や表現の違いの問題で、それと日本映画が良くなるか悪くなるかは感情論で不毛な話なのである。
筆者はむしろ山田洋次は日本映画の良心であるとすら考えている。
撮影時間がサラリーマンの勤務時間並みに9時から17時まででちゃんと終わる。
良い作品は決して時間をかければ出来るとは言い切れない。
黒澤明が晩年作品数が少なくなったのは、撮影にこだわるあまりに予算を大幅に超えてしまったからだ。
スポンサーになってくれる企業を探すのに苦労したようだ。
ハリウッドで早撮りで有名なのは、クリント・イーストウッドとスティーヴン・スピルバーグである。
作品の質に撮影時間の長さは全く関係が無い。
気心の知れたスタッフと長年組んで職人技で制作していれば撮影時間を短縮して予算内で納品することは可能なことである。
山田洋次は、東日本大震災で延期した『東京家族』、志村けんのコロナ感染による死亡で主役交代があった『キネマの神様』以外はほぼ予定通りに、映画を順調に公開に踏み切ることが出来ている。
日本映画の将来を考える時に、山田洋次の制作の仕方はむしろ未来のやり方として再評価すべき素晴らしいモノではないだろうか?
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