江藤新平(wikipediaより)
江藤新平は、1834年に佐賀藩の武士の長男として誕生。16歳になると藩校である弘道館で学びます。やがて、政治に興味を持ち始めるようになると、「義祭(ぎさい)同盟」という政治結社に加入。同じ組織のメンバーだった大隈重信らと行動を共にするようになりました。
その後、23歳になると「開国してもっと強い国になるべき」とした意見書「図海策(ずかいさく)」を作成し、提出。周囲からその先見性を評価され、次第に一目置かれるようになりました。
28歳のときに脱藩すると、京都で活動、桂小五郎や伊藤博文など明治初期に活躍した人物らと交流を持つようになります。当時の「脱藩」は重罪で、江藤も捕まり、一度は佐賀に連れ戻されてしまいます。通常なら死刑にあるところを藩主・鍋島直正(なべしま なおまさ)によって無期限謹慎に減刑されました。
江藤が33歳になると、政権が朝廷に返上される「大政奉還」がおこなわれ、これを機に謹慎が解除され、佐賀藩でいよいよ政治の世界にデビューしました。
それからの江藤は「法律こそ近代国家の根底」と考え、法律と司法制度の整備に尽力します。
1872年、39歳のときに初代・司法卿(しほうきょう)に就任。
江藤の行った様々な改革の一つが、江戸時代の「人相書き」を「手配写真」に代えたこと。罪を犯した罪人が、逃亡してもすぐに見つかるようにあらかじめ写真を撮っておくようにしたのです。
ところが、征韓論を巡る意見の対立から、職を辞めて故郷の佐賀へ戻ってしまいます。そして、1874(明治7)年、後に「佐賀の乱」と呼ばれる反乱を起こしますが敗北してしまいます。
追い込まれた江藤は、逃亡を図ろうとしますが、皮肉にも自分の作った手配写真の制度によって最初に逮捕されることになりました。

佐賀の乱(wikipediaより)
江藤のその後ですが、逮捕されたその日のうちに、ろくな審議もなく突然死刑が言い渡されて処刑されてしまいました。「法の番人」になることを目指した江藤は、その法に守られることなく41歳でその生涯を閉じたのでした。
なんて皮肉な生涯だったのでしょうか。現在、彼の墓は、故郷である佐賀県の本行寺というお寺にあります。
参考:『江藤新平―急進的改革者の悲劇』(毛利敏彦 中公新書 1987)
江藤 新平
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