歌人である定家に暴力は結び付かないかと思いますが、今回は定家が何をしたのかをざっくり説明すると共に暴力沙汰のこともご紹介します。
藤原定家/Wikipediaより
■定家は何をした人?
定家は藤原俊成の次男で生まれながらにして天才肌を持っていました。その才能は後鳥羽上皇や後堀川天皇に目を付けられ、勅撰和歌集の『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』の選者に任命されます。

後堀川天皇/Wikipediaより
また、武士で歌人でもある宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を制作しました。『小倉百人一首』は現代では競技かるたに用いられるほど、知名度が高いものとなっています。

『英雄百首』より宇都宮頼綱/Wikipediaより
定家は和歌集の撰進だけではなく『更級日記』や『伊勢物語』などの古典を自らの手で注釈を加えます。
この時に用いた仮名遣いは「定家仮名遣い」と称され、明治時代まで一定の支持を得ていました。
鎌倉時代まで生きた定家は仁治2年(1241)に74歳の大往生を遂げます。自身の家である藤原北家御子左流(みこひだりりゅう)を歌道の家として確立させた定家は、現代でもその名を広く知らしめることとなりました。
■性格も相まって暴力沙汰へ
定家は元来頭に血が上りやすい性格でした。その性格が災いとなるのが文治元年(1185)の23歳の時です。
源雅行に侮辱された定家は溢れる怒りを抑えきれず、近くにあった脂燭(しそく:小型の照明具)で雅行を殴ってしまいます。
しかし、この時行われていたのが大嘗祭(天皇が即位した時に行われる来年の豊作を祈願する儀式)で、多数ある宮廷行事の中でも最も重要視される大嘗祭でやらかした定家は官職から追放されてしまいました。
しかし、父・俊成のおかげで事なきを得ます。

藤原俊成/Wikipediaより
その後も定家は性格を改善することはありませんでした。
その結果、承久2年(1220)の58歳の時に歌の理論上の違いから以前より口論していた後鳥羽上皇から謹慎処分を言い渡されてしまいます。
後鳥羽上皇も気性が激しい性格だったので、こうなることは必然でした。

後鳥羽院像/Wikipediaより
しかし、翌年に起きた承久の乱で後鳥羽上皇が流刑に処されると定家を取り巻く状況は一変し、悠々自適な生活を送れるようになったのでした。
■最後に
歌聖と呼ばれるだけあって定家の性格は温厚と思っていたので、こういうエピソードから本来の性格が真逆だったことがわかり驚きでした。
自分を抑えることなく思ったことをやる定家は異端かと思うかもしれません。しかし、異端の方が誰も予想しなかったことを平然とやってのけるのも事実です。
だからこそ、定家は後世に残る歌人になったと考えてしまいますね。
参考:島崎晋『ざんねんな日本史』
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan