それくらい、肖像画のインパクトというのはそれを見る我々にとっては強烈に歴史上の人物の視覚的イメージを植えつけます。それだけに、肖像画の人物が実は別人のものだったとしたら、これまでに頭に刷り込んできた知識は誤解だったことになります。
ところが、研究の進展によっては、そんな”通説”が覆されてしまうことも結構あります…。
例えば源頼朝の肖像画。
これまで源頼朝とされていた人物像。絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)
この肖像画は、平安時代後期の宮廷絵師・藤原隆信によって描かれたものとされ、今まで、京都の神護寺伝来の国宝「源頼朝像」として伝えられてきました。
冠をかぶって正装した頼朝の姿は、武家の棟梁としての風格に相応しく、まさに鎌倉幕府初代将軍として端正で威厳に満ちています。
神護寺に伝わる『神護寺略記』の「仙洞院」の条によると、もともと後白河法皇、平重盛、源頼朝、藤原光能、平業房の5人の肖像画があったのですが、このうち後白河法皇と平業房の肖像画が失われてしまい、残っているもののうちの一つが伝頼朝像とされているのです。
ところが、この頼朝像には古くから疑問が上がっていました。
■この肖像は後世に制作されたものでは?
その疑問とは、画風が藤原隆信の時代の頃と異なっており、後世に制作されたものではないだろうか、というものです。
実は、冠のつけ方も人物が敷いている畳の緑のデザインも鎌倉時代中期以降にでてきたもので、絵が描かれたときには存在したかったと考えられています。
このような経緯から、現在の教科書や歴史書などでは、この肖像画を「源頼朝像」ではなく、「伝源頼朝像」というように表記するようになりました。
では、この肖像画の人物は誰なのか、ということになりますが、この疑問に応えたのが美術史家の米倉柚夫氏でした。
■この肖像画の人物は誰なのか?
1995(平成7)年、米倉氏は『源頼朝像』という著書を出版。その著書の中で頼朝像と伝えられている肖像画のモデルは頼朝ではなく、足利尊氏の弟・直義であるとしました。直義は兄の尊氏とともに鎌倉幕府を倒し、室町幕府の創設に貢献した人物です。
米倉氏によると、神護寺伝来の源頼朝像・平重盛像・藤原光能像はどれも伝えられる人物を描いたものではなく、源頼朝は足利直義、重盛像は足利尊氏、光能像は足利義詮だとしています。
また、歴史学者の黒田日出男氏も2012(平成24)年に『国宝神護寺三蔵とは何か』を出版。同著の中で、尊氏の像は尊氏と八幡菩薩とのダブルイメージ、直義の像は自分と弘法大師と聖徳太子のトリプルイメージで描かせたとしています。
黒田氏によれば、直義は禅僧の夢窓疎石に帰依し、夢窓から聖徳太子を手本にした政治が求められました。そこで直義は全国に寺や塔を建て、仏教の信仰を図りました。
参考:
- 米倉柚夫『源頼朝像 沈黙の肖像画 』平凡社ライブラリー
- 黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』角川選書
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