この必死の活躍を、誰かに知ってもらいたい、できれば認めてもらいたい……きっとそんな思いがあるのでしょうが、その心情は遠い昔の武士たちも同じでした。
そこで今回は、平安末期「保元の乱」で活躍したとある坂東武者のエピソードを紹介したいと思います。
■強敵!鎮西八郎こと源為朝
今は昔の八百余年、朝廷で繰り広げられた後白河天皇派と崇徳上皇派の権力争いが、武力衝突にまでエスカレートした「保元の乱(保元元1156年7月)」では、源氏も平氏も各々が敵味方に分かれて戦うこととなりました。
今回の主人公である大庭平太景義(おおばの へいだ※1かげよし)は弟の三郎景親(さぶろうかげちか)と共に後白河天皇方の源義朝(みなもとの よしとも)に従い、崇徳上皇方の立て籠もる白河殿(しらかわどの。現:京都府京都市左京区)の攻略に当たりました。
「……来おったか。この鎮西八郎の弓を受けてみよ!」
ここを守っている上皇方の大将は、弓の名手として西国に名高き鎮西八郎こと源為朝(みなもとの ためとも)。
鎮西八郎こと源為朝の雄姿。Wikipediaより。
八人張り(※2)の強弓を軽々と引く怪力と、右腕より四寸(約13センチ)も長い左腕を併せ持った「弓矢の申し子」。自慢の腕前を発揮して、後白河天皇方の武者雑兵らを次々と射止めていきます。
あまりの弓勢(ゆんぜい。矢の勢い)に恐れをなす者も続出、攻めあぐねる中、しびれを切らした義朝が、平太と三郎を叱咤します。
「その方(ほう)ら、ここが命の張り時ぞ!坂東武者の意気地を見せよ、いざ攻めこめ!駆け込め!」
【原文】「相模の若党、何(いつ)の料(りょう)に命を可惜(おしむべき)ぞ。責(せめ)よ責よ、蒐(かけ)よ蒐よ」ここで退いては坂東武者の名折れ……平太と三郎は馬に鞭を入れると、一気呵成に敵が降らせる矢の雨をかいくぐり、白河殿へと殴り込んだのでした。
【意訳】「相模(現:神奈川県)の若武者たちよ。何のために命を惜しむのか。攻めよ、駆けよ」
※『保元物語』白河殿攻メ落ス事 より
(※1)原文ママ。
(※2)8人がかりでないと弦をかけられないほどの強い弓。
■鎌倉一族の名誉を賭けて!
さて、白河殿へ突入した平太と三郎は、その音声(おんじょう)も高らかに名乗りを上げます。
「音にも聞食(きこしめす)らん。昔、八幡殿(はちまんどの)の後三年の軍(いくさ)に、金沢(かねざわ)の城(じょう)責(せめ)られしに、鳥海(とりのうみ)の館(たて)落させ給(たまい)ける時、生年(しょうねん)十六歳にて、軍(いくさ)の前に立(たち)て、左(※3)の眼(まなこ)を射られ乍(ながら)答(とう)の矢を射て敵(かたき)を打取(うちとり)て、名を後代に留(とどめ)たる鎌倉の権五郎景政(ごんごろうかげまさ)が五代(※4)の末葉(まつよう)に、相模国(さがみのくに)の住人大庭平太景義、同(おなじく)三郎景親」ここで言及されている八幡殿とは八幡太郎こと源義家(みなもとの よしいえ)を指し、その家人(けにん)として世に言う「後三年の役(永保三1083年~寛治元1087年)」に従軍、武功を挙げた鎌倉権五郎こと平景政(たいらの かげまさ)の子孫(末葉)である、と名乗っています。
※『保元物語』白河殿攻メ落ス事 より

源義家(右)と平景政(左)の主従。歌川芳員、江戸時代後期。
このように、往時の武士たちは代々の家名(一族の名誉)を背負い、祖先や子孫たちに恥じぬ戦いや生き方を心がけたものでした。
ちなみに敵将の為朝は八幡太郎の子孫に当たり、かつて主従であった者の子孫同士が敵味方として戦場に相対することとなっています。
もっとも、平太と三郎が従っている義朝は為朝の兄であり、こちらも八幡太郎の子孫です。
ともあれ為朝は、平太と三郎が相模国の住人と聞いて、
「ほう……音に聞こえし坂東武者との手合わせはこれが初めて……そうじゃ、彼奴(きゃつ)らを引目(ひきめ)の矢で驚かしてやろう」
引目とはいわゆる鏑矢(かぶらや)で、朴(ほお)や桐材を蕪(かぶら)のような球形に削り出し、中を空洞に刳(く)り抜いた側面に穴(目)を穿ったもの(鏑・かぶら)を矢の先端につけることで、射放つと目から風が入って高い音を響かせるため、響目(ひびきめ)が転じて引目、蟇目などと呼ばれました。

引目の先に大雁股の鏃が取りつけられている。
通常であればこの引目は先端に鏃(やじり)をつけず、単に音だけ響かせて合図などに用いるのですが、為朝は引目の先に大雁股(おおかりまた。外側に反ったU字形)の鏃を取りつけて、恐ろしい音と殺傷能力を誇示しようと考えたのです。
「……そこにおわすは鎮西八郎と見た。いざ尋常に、勝負!」
「おう、望むところよ!」
三郎と二手に分かれた平太は鞭声颯爽と馬を励まし、強敵・為朝へと挑みかかったのでした。
(※3)通説では右眼となっていますが、ここでは『保元物語』の記述に従っています。
(※4)諸説あり。
【中編はこちら】
※参考文献: 栃木孝惟ら校注『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』岩波書店、1992年7月30日
貴志正造 訳注『全譯 吾妻鏡 第二巻』新人物往来社、昭和五十四1979年10月20日 第四刷
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