二刀流の剣士。それを聞くだけで不思議とウキウキしてしまうもの。
本来両手で持つ日本刀を片手で1振りずつ持つ勇ましい姿にカッコよさを覚えてしまいますね。

今回は新選組の中で1位2位を争うくらい心技体に優れた剣士であり、しかも二刀流の達人でもあった服部武雄(はっとりたけお)についてご紹介いたします。

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■奸臣を斬って伊東たちと出会う

赤穂藩に生まれた武雄は正義感の強い男だったらしく、藩を私物化しようとした奸臣を斬り捨て江戸へ逃亡します。

あてもなく彷徨っていると武雄は伊東甲子太郎(いとうかしたろう)、篠原泰之進(しのはらたいのしん)、加納鷲雄(かのうわしお)たちと運命の出会いをします。文久3年(1863)のことでした。

二刀流は浪漫!江戸時代、新選組で二刀流の達人と謳われた隊士がいた!


 伊東甲子太郎/Wikipediaより

特に甲子太郎とは非常に馬が合い、兄弟同然の扱いを受けました。


■新選組では諸子調役兼監察に

元治元年(1864)甲子太郎が藤堂平助の仲介で新選組に入ると武雄も随行します。加入後に行われた隊編成で武雄は尾形俊太郎が組長を務める5番隊に編成されます。

また慶応元年(1865)には諸子調役兼監察と撃剣師範に任命されます。

ちなみに諸子調役兼監察は平たく言えば、諜報活動(スパイ活動)と規律に反した者を処罰するために証拠集めをする仕事がメインの職務です。

その後武雄は慶応2年(1866)に土佐藩士が三条大橋に立ててあった長州藩を朝敵とする制札を抜こうとして起きた三条制札事件で目付役として活躍し、多額の恩賞金を受け取りました。

■運命の油小路

慶応3年(1867)3月甲子太郎が思想の違いから新選組を離れ、御陵衛士(ごりょうえじ)を結成すると武雄は平助や他の同志たちと共に御陵衛士に加入します。


同年11月15日に坂本龍馬が近江屋で暗殺されると武雄は龍馬のために歌を詠みました。

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 坂本龍馬/Wikipediaより

実のところ2人は一度も会ったことがないのですが、同日に甲子太郎が龍馬と会っていたのでその時に龍馬の人となりを聞いて詠んだのだと思います。

その3日後の11月18日油小路事件が起きます。新選組によって暗殺された甲子太郎の遺体を引き取りに行こうとした御陵衛士は激戦になることを予想します。

武雄は鎖帷子の着用を促しますが却下され、武雄のみが付けました。

そして、新選組と激戦となり平助や毛内有之助(もうないありのしん)が死亡した中、武雄は他の御陵衛士たちを逃がすために孤軍奮闘します。


腰に提灯をぶら下げ、民家を背に2振りの刀を振るった武雄に新選組は苦戦し多くの負傷者を出しました。

最後は原田左之助の槍の一突きで絶命するのですが、武雄の死に様は20箇所の傷を負い両手の刀を握ったまま大の字に倒れる見事なものでした。

■最後に

新選組に加入する前から奸臣を斬り伏せたことから武雄は正義感や己の信条を絶対に曲げることのない剣士だったと思います。

そして兄弟のように親しかった甲子太郎を失ったことで生きる希望を失い、最後は甲子太郎と共に散りたいということで油小路に死に場所を求めていたのかなと考えてしまいます。

参考:前田政記『新選組全隊士徹底ガイド』

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